nakoは生きものだ

消費者、ティーンエイジの残弾、日記

夏が売り切れた、物的所有への回帰、ワクチン1回目、救済を

 夏が売り切れた。そんなような天気だった。ガクンと気温が下がり、少し前まで浴びせられていた熱風とは程遠い、じっとりと水分を含んだ空気で、比較的過ごしやすかった。そこそこの雨が降っていて、秋の馬鹿みたいな強さの台風と、冬の、人が恋しくなる寒さの予感がした。

 

 正統な「夏」を定義するならば、その期限は8月31日だと思う。小中高の学生らの夏休みが終わる日だ。卯月コウが言っていたように、夏には日付という明確な終わりがある。だから<瞬間>と紐づけられることが多くて、青春と感傷の季節で、エモい季節なのだろう。

 

 大学1年生になって、自分の夏休みの日数は増え、終わりは8月31日ではなくなった。残りはあと3週間程度ある。31日に終わりの感覚はなく、だらだらと、新たに買ったNintendo SwitchドラゴンクエストXI Sをプレイしていた。だからもう少しだけ続く終わりの延長を楽しみたいところではある。

 

 

 大学生になって一番得られた価値あるものは、「平日昼間にぶらつくことができる状況」だった。ただ、いわゆる夏休みの間は、昼間に学生が外出するから、外に出るのも億劫で、だから大学生に許された「夏休み延長戦」の平日にぶらぶらしたいな、と春先には思っていたのだけど。

 

 まあ、そんなことができる状況ではないというか、現状、ダンスは許されないというか。いや、全然したい人はすればいいだろうけど、自分にはちょっと無理だな、というだけで。元来夏休みに主体的に動いたことはほとんどないのだし。

 

 

 ということもあって、大学でワクチン接種を終えてきた。(一瞬"枠珍"って書こうとしたけどやめた)。18歳男性・モデルナ一回目。このためにわざわざ東京まで電車で向かったから、それが馬鹿らしいといえば馬鹿らしいかもしれない。

 

 久しぶりに電車に乗った。直近では8月頭に映画に行ったのが最後だった。やはり「場所の記憶」というものはあるような気がして、駅までの道中で、高校3年間の登校の日々を思い出していた。最後に登校したのは3月だけど、きちんと毎日のように登校していたのは1月で終わっていたから、少し冬の寒さを思い出した。冬が好きだから、はやく来てほしい。

 

 いや、場所の記憶というか、正しく言えば、「ルーティーン化された行動をするときに、過去と未来とに接続している」ということなのだろう。例えばお風呂に入って体を洗う順番は、昨日も今日も明日もたいして変わらない。今日したことは過去し続けてきたことで、おそらく未来もし続ける。そういう時、現在から過去と未来にアクセスしている訳で。

 

 だからなのか、風呂に入っていると色んなアイデアが浮かんでくる。ぼーっとしているときより数倍の思考速度になってる気がして、風呂は楽しい。サウナもルーティーン化すれば過去と未来に接続できるようになって、気持ち良くなるんだろうか。

 

 あとは音楽に記憶を保存するとか。1ヶ月だけ特定の曲を聴き続けて、数年経った後聴けば、その頃の記憶や感覚を思い出すことができるだろう。実際自分にもそういうことがよくある。今年の1月ごろ、くるり『東京』をリピートしていたので、今聴くとその時の感覚に戻れる。「懐メロ」もここに属するのかな。あと、音楽で昔の記憶や感覚にアクセスしたとき、「人間はカルチャーから逃れられないな」と思う。靴ひとつとってもカルチャーがあり、 マスクひとつとってもカルチャーがある。「カルチャーの中に生きていません」と言える人が、一体どれだけいるのだろう。幼い日、アンパンマンをみた瞬間にその芽は摘まれると思う。

 

 行きの電車で二つの読み切りマンガを読む。どちらもめちゃめちゃおもしろくて、タダで読んでいいんですか、と思った。もちろん作者にはサイトのシステムで広告収入が入るし、消費者(読み手)の時間のトレードオフを考慮すれば無料ではないけれど。あと読み切りマンガがバズる、拡散されるのは、連載漫画と比べて短い快楽だからという面もあるなあ、という気分になる。

 

 そういえば最近、面白そうな単語に遭遇した。「消費者行動論」というものなのだけれど、消費者のすべての活動の研究らしい。

 

 自分がいま興味のあることは、「コンテンツ消費」の時の消費者の態度......「長い快楽」に耐えられなくなった現代人(ex.ファスト映画、TikTokをはじめとする短い動画の数々)、コンテンツ消費のスピード(VTuberとかが顕著で、先日の家長むぎのnoteの外的環境についてとか)

 

note.com

 

 、先日の某メンタリストみたいな「役に立つ」「生産性」至上主義、若い世代に膾炙している(と思われる)コスパ主義、無料の快楽に身を浸す人間(無料人間)、「意味を求めて無意味なものがない」状態、日本(人)の空洞化、......などがある。

 

 これらを学ぶ、あるいは研究するとなったら、どういう分野に進めばいいのだろう、とぼんやり疑問だったのだけど、結構いい当てはまり方をするものと出会ってしまった。もう少し消費者行動論について調べたい。現実的にはマーケティングのほうに進めばいいのかな。自分は物的消費ではなく、コンテンツ消費に主眼を置きたいのだけれど。

 

 

 

 電車で萌えの街を通り過ぎて、雨が降る学生街へ。ここは川と楽器と本、それからカレーやラーメンに溢れていて、けっこう居心地が良い。駅前にサイゼもあるし。東京で、黄色い電車とオレンジの電車が通っているところが全体的に好きなのもある。

 

 予約時間まで暇だったので、結構大きい本屋に向かった。前日のうちに買いたい本を決めていたのだ。品田遊『ただしい人類滅亡計画』と、森見登美彦『熱帯』と熊代亨『何者かになりたい』を買う予定だった。紙媒体で。

 

 今年の初めから、Amazon Kindleで、電子書籍で本を読むようになった。理由は色々あるけど、一番はかさばらないからだ。

 

 この前、部屋の掃除として本棚にある本をダンボールに一度全部しまってみた。片付けの本質は移動と集約だからだ。するとAmazonの空箱2つできっかり収まった。自分が読んできた本の割に、案外少なかったんだな、と思った。1年前に、ある程度ブックオフに売り払った、ということもあるけれど。

 

 自分の部屋は部屋として成立しているわけではないスペースで、自分の布団と、横にした棚があり、ついでにあんまり使っていない机だけがある。空間らしい空間は布団+机なので、体感的には3畳、いや2畳ない。

 

 少し離れた空間に服のためのスペースがあって、それがすべて。多分あんまり広いほうではない。

 

 本をしまうスペースも近年圧迫気味で、縦積みの積み本ばかりが増えていく生活をしていた。けれどふと、ああ、貧しい人間は物的所有を許されないのだ、と気づいた。

 

 貧しい人間は本を十分に収納できるスペースを得ることができないのだ。空間的広さとは金銭の余裕を表す。だから、貧しい人間(私)は空間を占拠する物的所有に走ることはなく、電子書籍でスペースをとらないようになる。ああ、貧しい。

 

 あとは電子書籍だと文字が頭に入ってこない。スマホタブレットを見ている、という状況で、情報を意欲的に取り組むことができなくなっている。目が滑る、とでも言うのだろうか。日本人の何割は文字を読むことができない、はここ数年でホットな話題となったけれど、いつの間にか自分も文字が読めない側に落とされていたみたいだ。それでもかろうじて紙媒体のほうが頭に入ってくる。

 

 加えて、今回紙媒体で買った理由は、電子書籍は共有を前提としていない点で孤独である、と考えているからでもある。

 

 紙媒体は回し読みができる。貸し借りが存在しうる。例えば、これは友達の話なのだが、クラスの間で漫画の貸し借りが流行っていたとする。それはグループを跨いだ横断的な交流になっていて、お互いに好きな漫画を布教できるチャンスでもあり、自分の好きを明らかにできるチャンスでもある。

 

 これは人間と交流したい気持ちがあるのならば流れに乗るべきだ。借りるだけでもいいが、自分を主張したり、フェアでありたいならば、自分から貸したほうがいい。なのに、電子書籍で漫画を買っていた人……実際は俺くん……は、その輪に入りきれなかったのだそうだ。貸せないから。

 

 電子書籍は孤独の性質を内包しているのだ。家族間の共有を考えても、紙媒体のほうがいい。「アカウントを貸し出す」とか「デバイスを貸し出す」とかは論外だ。セキュリティのことを考えてほしい。情報セキュリティは常に性悪説で考えなければならないのだ。「不正のトライアングル」参照。

 

 まあ、今回はそういう理由で紙媒体で買ったのだ。孤独を紛らしたい気持ち、ありけり。本の街に行く用があったから、というのもある。

 

 三省堂書店本店には久しぶりに来た。この本屋はまあまあでかく、駅ナカの本屋10個分くらいのスペースが1階から6階まである。ここの本屋に売ってなかったらどこにも売ってないだろ、くらいには在庫が充実しているんじゃなかろうか。

 

 漫画やライトノベルの取り扱いは薄いように思うが、それは少しだけ東に歩けば問題ない。川に沿って秋葉原にまで行けば良い話だ。

 

 買う予定だった本を探す。3冊ともすぐに見つかったけれど、本屋を巡っていると予定じゃない本を買いたくなるものだ。本当は新書コーナーにあったイギリスの消費社会についての本と、ブルーバックスあたりで見かけた量子力学の本、建築家・隈研吾の本も買いたかった。公共デザインとか興味ある。

 

 この店に新しくセルフレジが導入されたらしく、さっそく使ってみた。この店に限らず、全体的に、日本では(主語が大きい)セルフレジ利用率は低いほうなんじゃないかと思う。日常的に使うセルフレジは、Newdaysファミリーマートの2つのコンビニだけれど、セルフレジが混んでいることは稀だ。みなだいたい有人レジへ行く。そんなに人と話したいのだろうか。

 

 セルフレジは、別に統一された規格があるわけでもないから、初見のハードルが高い。初手でフローチャートが示されないのでめちゃめちゃ戸惑う。けれど初回のコストさえ支払ってしまえば、その後は流れ作業だ。ポイントカードや袋の有無について、いちいち口頭で確認されることはなくなる。いちいち話すことは無くなる。

 

 本屋のレジは初めてで、めちゃめちゃめちゃ戸惑ってしまった。バーコードリーダの位置が20秒くらいわからなった。店員に怪訝な顔をされたけれど、人に話しかけられたくなくて、話したくなくてセルフレジを利用するのだ。話しかけられないことを願う。

 

 セルフレジには自分ひとりしか居ないのに、有人レジはすべて埋まっていた。向こうには人が並んでいる。だがこちらに流れてくることもない。アレか、人の温かみが必要だからセルフレジは必要ないとか言うクチか。適切な資源運用を考えるのならば、空いているほうを選んだほうが良いと思うのだけど。そういうことではないが。

 

 結局、買う予定の本とジャンプコミックス2冊を買った。いい時間になったので、駅のロッカーに本を詰めて、接種会場に向かった。

 

 結果から書くと、建物に入ってから30分程度で帰ることができた。そのうち様子見の時間が15分だから、受付や接種自体は15分で終わったことになる。なんと効率的なパフォーマンスか。

 

 こういう、人を動かすイベントとかを見ると、フローに無駄な部分が無いかとか、何人が動いているのとか考える癖がある(これは完全に商業高校に入ってしまったせい)。流れは、受付①→受付②→予診→接種→2回目受付→様子見、みたいな感じだった。運営の人数はおそらく100人以上はいた。いたけれど、あんまり腐っている位置にいた人はいなかったように思う。まあ、緊急事態も想定できるのだし、人数にバッファがあっていいことだと思うけど。

 

 自分としては、副反応より書類に不備があるかどうか不安だったけど、結局何も問題はなかった。何しろ受験の面接の初手で「あなたの書類間違えてましたよ、ちゃんとしてますか?」みたいなことを言われた人間だ。あのような恐怖はもう味わいたくない。いや不備は自分のせいなのですが。

 

 接種後はまあ典型的に、接種部位が痛くなるだけだった。その日は腕と膝が痛むのと、頭痛薬で治る程度の頭痛で終わった。翌日からは結構ひどくて、インフルエンザのピークくらいの火力が12時間程続いた。発熱、発汗が酷かった。無理に眠ろうとしたからか、悪夢ばかり見た。それも1日で落ち着いて、その翌日に少し熱が残るくらいで終わった。

 

 1回目でこれか、という思いもある。まあ、2回目の時はオンライン授業になりそうだし、土日があるのでなんとかなるとは思う。

 
 接種日時点での「総人口に対する少なくとも1回接種した人の割合」は、58%だった(日本経済新聞のデータより)。18歳の大学生の1回目が58%時点かあ。正直、自分より早く打たれるべき人がいるのでは、とも思う。それが打たない理由にはならないが。

 

 建物を出て、駅に向かう。案外大したことなかったな、と楽器屋を眺めながら歩いていると、嫌な音を聞いた。

 

 救急車のサイレンである。車は向こう側から走ってきている。それは出棺の音にも聞こえたし、鎮魂歌のようにも聞こえた。結局ただのサイレンではあるが、その意味は大きすぎた。いや、ただのサイレンであればいい。自分が経験してきた、いつも通りのサイレンであれば。1年前は救急車のサイレンを聞いても何も思わなかった。ただ、今は、その意味が違いすぎる。

 

 あの救急車を呼んだ人は、生き残るのだろうか。救急搬送に何時間もかかった、という報道がなされる中で、その音について何も考えないのは、あまりにも残酷すぎるように思った。

 

 生きてくれればいいのに、と思う。基本、他人には生きて欲しい。資源の有効活用、という考え方もあるけど、別に死んで欲しいなどとは思わないわけだし。

 

 けれど。どうやら現代では、「他人の死に鈍くなること」が生きるコツらしい。

 

 「他人だから」とか、「自己責任」とか言って、自分と他人をグループ分けして、共同体としての繋がりなど考えず、ある種穏やかな排斥をする。他人の死すらコンテンツ化して、消費する。なるべく、真剣に考えない。

 

 生きるコツなのだ、これが。「効率的に」「上手く」「コスパ良く」「有意義に」生きるのに、他人への祈りなど必要ない。他人の死など考えない。どこまで行っても他人である存在が消えて無くなり、自分とは無関係な場所で起こった話。それは現実ではなく、外側で起こった話。

 

 きっとそれは正しいのだ、と思う。他者の救いに目を向ける余裕などない。日常のありふれた、肥大化した快楽と自己の救済で精一杯だ。毎日積まれていく死はただの数字でしかなく、相対的に比較したときに成績が良い値。事故でも人災でも、数字だし、他人の話。そこに至るまでの人生なぞ知らず、それが無ければ続けられていた未来など考えない。考えてはいけない。自分を守るために。

 

 ああ、死などという断絶を考えない生活は心地よい。快楽で溢れている。それを崩す必要はない。考えないことは幸せだ。愚かで、つまらなくて、幸せなのだ。

 

 自分の幸せのために生きるのは当然のことだ。だから考えないのは当然のことだ。他人の死に鈍くなるのは当然のことだ。そういう態度が、人生の攻略法なのだ。

 

 死んだ人は死んで、生き返ることはない。墓も葬式も死者のためでなく、生者の都合だ。本質的に、死んだ人間に対して何かすることはできない。

 

 人が死ぬまで社会は動かない、というような言説を見たことがあるが、あれは本当だろうか。もう死んでも動きはしないのではないだろうか。森友学園とか入管とか救急車とか、渋谷区のバス停のホームレスとか。他人の死に向き合うことなど、現代の人間には不可能になっているのではないか。

 

 ああ、こんなこと考えていても仕方がない。他人の死に鈍くなるのは、今の社会のデフォルトだ。そっちのほうが多数派なのだろう。何も考えないのは心地よい。愚かでつまらなくて幸福だ。パンとサーカスだけ貪り食って、飽きたら捨てて、自らを大量生産・大量消費・大量廃棄の流れに置いたほうがいい。快楽の質や人生の幸福などは考えない。考えられない。社会のことなどわからない。正しさなど確立できない。外づけの行動指針と思考で走るしかない。それが正しい。正しいと言われてきた。

 

 

 教科書的な説明では、20世紀後半から、我々は技術の標準化によって「より便利に、より豊かに」なり、「余暇時間が増大した」と言われる。確かに三種の神器による家事の簡便化はあっただろう。それで増える余暇時間はあっただろう。

 

 しかし、現代で「余暇時間が増大した」と言われても、はて、と思う。現代では余暇時間が「余暇時間」を殺しているのではないか。サービスは有限のパイを奪い合い、消費者は時間のトレードオフに直面している。日々の情報量はここ2、30年で大きく上昇した。供給が増えた。需要が増えた。時間を潰せることは大きく増えた。おおよそ、画面の中で。

 

 うむ、なんかもうどうしようもない。なんなんだこの閉塞感は。

 

 最近知ったのだけれど、どうやら、国というものは経済成長をするものらしい。物価は上がるものらしい。賃金は上がるものらしい。そうなのか、と思う。自分は2003年生まれで、生きている期間、ずっとデフレみたいなのだが。気づいたらコンビニの商品は年々小さくなっていて、最低賃金というのは街中に溢れていて、「なんかいい方向に向かってる実感」がないまま過ごしていて。なるほど、この閉塞感は経済の影響もあったのか、と思う。

 

 いや、経済の話はやめておこう。社会の話もやめておこう。もう少し本を読もう。半年ROMれ、というヤツだ。

 

 だんだん、考えていることが、自分のことから他人のこと、他人のことから社会のことに移り変わってきた。この変遷は良いのか、悪いのか。でも1は10であり、10は1であるから、自分でも社会でも変わらないのだと思う。 

 

 

 

 これは日記だけど、今日、『月姫 -A piece of blue glass moon-』をクリアした。美しい物語たちだった。自分が上のように考えていた事柄も取り上げられていて、ひとつの答え合わせみたいになった。具体的には、個人主義とか罪とか罰とか償いとか救いとか。ああ、いい物語だった。いい消費をした。「プレイ動画をYouTubeで二倍速で見る」とかしなくてよかった。この歳でそんなこと、もう許されないし。

 

 しばらくはReoNaのオープニング曲とエンディング曲をリピートすると思う。

 

  

youtu.be

 

 

youtu.be

 

 

 特に「生命線」のラスサビ前と、「Believer」が、ほんとうに......。生きていたくなる曲だ。まだ駆けていたくなってしまう。『ただしい人類滅亡計画』を読んだ直後なのに。「もう無理だよ、こんな魂どこにも行けずに朽ちていくだけだよ」と「まだまだでしょ、愛にできることはまだあるでしょ、いいから旅に出よう、見つけにいこう、キミならそれができる」とで反復している。今は後者の方が強い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕らが旅に出ない理由なんて

 

 本当はただのひとつだってないんだ

 

 

 

 

 私の好きな青/スカート