nakoは生きものだ

消費者、ティーンエイジの残弾、日記

見られなくてもいい媒体としてのはてな

どうしようどうしようと方法を思い浮かべてそれらを眺めていたら、書くことしか残っていないように見えた。閉じた系を脱してどうこうという方法より、閉じた系からひらかれた系にアクセスしようとしている。書くことしかなかったのは、書くということはInstagram的でもTikTok的でもなく、Twitter的だからだと思う。

 

端的に言って、本格的に、人生史上最大に、ダメになってしまった。どうダメかって、書いている以上、書くというフォーマットから逃れられない以上、抽象–具体的なアプローチとして書かなければいけないようなんだけれど、まあ。

 

大学を後にして音楽を聴き始めたら、涙が出てしまった。泣いた理由は音楽ではない。綺麗じゃない涙だ。フィクショナルな美しさなんてどこにも見出すことのできない、言ってしまえば、大衆的な評価、Twitter的なバズなんてありえない涙。泣き方。男の泣き方って美しくないからな。男だったら泣いてはいけないし、俺は長男なのだから、耐え切らなければならない。声を上げない泣き方はいつの間にか身につけていたから、両目から、内側から水が出てきて、きっとこれも重量で落ちていく。落ちていった先は、ごめん、マスク社会だったから、マスクに水が吸収されて、ぐちゃぐちゃになる。

 

ターミナル駅について、向こうから人がやってきて、見られる力、見られることを意識する。涙は止まらなかった。

 

メガネを取った。取ったら街が見えなくなった。情報量が減った。幸福になった。

 

音楽を止めた。iOSのバックグラウンドサウンドで耳を覆った。情報量が減った。幸福になった。

 

駅から、別のキャンパスに行った。目的の駅について、そろそろ心を落ち着かせようとする。目と耳を削いで、深い呼吸をする。呼吸をする自分を見るのではなく、ただ呼吸をするという動作だけに集中する。メタは挟まない。動作そのものに意識を向ける。

 

大学図書館についた。本を借りる。帰りの電車に乗り込む。意識を失いながら揺られる。腹が減ったのでラーメン屋に行く。食べ終わる。ちょうどいい腹具合。

 

帰る。家に着く。水を飲む、風呂に入る、課題をする、眠る。明日も1限だった。

 

アラームで起きる。止める。起きなければ。体が動かない。対面必修があるのだから動かなければいけない。動けない。大学を休んだ。サボりだ。そのまま眠った。

 

12時に起きて、2時間くらい起きて、6時間寝た。起きた。起きている。起きていたらダメだった。涙が出てきた。もうダメなんだと思った。もうダメだけれどダメと付き合っていけないことを思い出した。

 

たぶん自分は見えすぎていて、考えすぎている。だからダメなのだ。だから眼鏡をはずして何も見ないことと、イヤホンをして曲も流さず環境音を自分にそそぐことが幸福なのだ。

 

考えすぎてはいけない。自分へのメタも、まわりへのメタも、やってはいけないことなんだ。考えている自分を考えている自分を考えている自分......の合わせ鏡状態がダメなんだと思う。

 

少し前まで泣いていたけれど、泣いているときは、頭の中でミサトさんが今泣いてもどうにもならないわと言っていたし、泣いている自分に酔って気持ちよくなっているだけでしょう、と頭の中の何者かに指摘されていた。そういうことを無くすべきなんだ。いらないんだよそんな機構。客観や俯瞰や接続はいらないんだ。自分はただ泣くこともできないんだと悟った。なんて、不幸。

 

考えないことが幸せだ。何よりの。内側の動きをせず、認識もせず、ただ肉体を動かすだけなのが幸せだ。ゾンビ化すればいい。昔、陽キャと呼ばれる人たちは何も考えていないように見えるとどこかで書いたけれど、それは幸福だった。目指すべきものだった。自分について考えない。それが何より、いい。自分の消費態度なんて目を凝らさないのがいい。人生について考えないのがいい。他人について考えないのがいい。社会について考えないのがいい。それがいい。

 

もっと自己責任的に、自助的に、マッチョ指向で、食い散らかし、殺すような、他人に迷惑をかけることを迷惑だと思わないような、生き方を、したら、もっと何より楽で、今から抜け出せる。それがこれからのスタンダードになるだろうし。

 

つまりそれは、大きな力に期待しない生き方だ。政治とか社会とか他人とか、そういう力を持った基盤に期待も希望も持つことなく、自分の小宇宙を大宇宙に拡大し、それのみで生きていくということだ。救済を待たない生き方だ。そもそも救済があるという希望にしがみつかない生き方だ。己だけ完結する、生き方だ。

 

全体的にそうなっていくと思う。コロナ禍と政治と経済と社会モデルと規範とフィクションと雰囲気で。そうならざるを得ないのだと思う。適応だと、適切に言いくるめられるのだと思う。それが良い悪いではなくて、そうならざるを得なくて、そうでない世界を想像する能力は奪われ消え失せる。それが、幸福だ。

 

幸福について考えないのが幸福なんだ。言葉は、一義的で一様的で一意で唯一で絶対でまがりなくて間違えなくてズレなく完璧で完全で、あわいなく隙間なくズレなく、世界をまるごと記述可能な統一言語だったら、きっと幸福なんだ。

 

幸福について考えないでいようと思う。何も考えないでいようと思う。何も考えないは言い過ぎで、考える自分について考えないでいようと思う。何もしたくない。