nakoは生きものだ

消費者、日記

20220218

書きたかったものがいくつかある。より正確に言えば、書き上げたかったものが。

 

劇場版スタァライトを観て感じたこと、「月ノ美兎は箱の中」へ行ったこと、最近で言えば、劇場版スタァライトのオーケストラコンサートに行ったこと。書きたいものを書こうとして(実際にはフリック入力やキーボード入力で)、1000字は書いて、下書きをそのままにして、手をつけられずに時間が過ぎる。書き上げることができない。

 

今だってそう。ここまで書いて、もう書きたくなくなっている。「書いてみたい、一文を決めてみる、もう無理だ。」のループから抜け出せない。

 

つまり(何もつまりではない)、必要なのは(何も必要ではない)、書けない自分を引き受け──引き受け続けることである

 

「書かずに書く」すら実践の(あるいは練習の)域に達せないのならば、「書けずに書く」までハードルを下げに下げ、なんとかやっていくしかない。私は文章が書けません、普通の文章も書けません、この文章も可読性が低いことでしょう。わかっています、つらいです、しかし書いています──という風に。 

 

「まだまだここからなのだ」と未来へ無限の期待をするのは、ある種の人々の、とある時間にしか存在し得ない心の向き方だ。私はもう、その無限の期待には乗れそうにもない。

 

「もうダメですわ」と現在を諦め、過去に縋るのが、今一番自分にフィットしている。......そんな中でも、やりたいことや、やるべきことが(本来)あった......はずである。

 

だから、つまり、そうではなくて、ええと、私は、回復して、書きたいものを書き上げられるように......なりたいと、思います。自己実現と反自己実現を往復しながら、その運動を投げやりにせずに、大事にしていたいと......思うようになりたいと......思うのです。