nakoは生きものだ

消費者、日記

消費されゆく

本当は、一々意を決してPCと向き合わなくとも、スマホで文章は書けるのだ。文章を書くときはPCで、という自分のこだわりは、日常的に触れているデバイススマホでも書けるのに書いていない事への言い訳だ。眼前の状況から逃げている。

 

『ライティングの哲学』で指摘されている通り、重要なのは、というよりかは根本的な問題は、先延ばし癖にあるのだろう。「あとでやろう」「一旦Twitter見るか」「風呂入ったらやろう」など。そうではないはずだ。今すぐやれば楽になれるのに、それをしない。何故だろう。

 

思えば先延ばし癖は小学生の頃から発現していた。端的に言えば宿題──特に「夏休みの宿題」において。大抵は最終日にまとめて取り掛かっていたし、そもそもやらずに9月を迎えた年もあった。それを矯正できずに大学生にまでなってしまった。それこそ癖をなんとかすることを「先延ばし」している!

 

と、書ける書けない・書く書かないについて書くことで、自分は文章を始められる。そういうのもどうやら癖らしい。対面・非対面問わず、会話が少し落ち着いたり話すことがなくなった時に、「いやー、話すことなくなりましたねー(笑)」と言うのも、たぶん、そういう癖の一部なんだろう。そこで一度、リセットとリスタートを図らないとやっていけないのが自分なんだと思う。それは僕の生存戦略

 

 

「消費」の話がしたいのだった。物的消費も自分の中である程度の関心があるがしかし、特に「コンテンツ消費」......それっぽい言い方をすれば「コト消費」になるのでしょうか。いや、違いますね。違うと思ったら違うのでしょう。「消費」の中でも、コンテンツ消費に特に興味があります。

 

物体を伴わない消費、でおおよそは言いたいことが示せると思う。例えば本、映画、アニメ、漫画、音楽、SNSYouTube、漫才、......などだろうか。それらは形態としてのメディアが必要である。「一杯の水」を認識するにはコップが必要なように、入れ物が必要なのだ。形としての(メディアとしての)本、映像を流すためのテレビ、それらすべて一つの入れ物に集約可能なスマホ、など。

 

今はその外側の容器の話ではなくて、内側そのものと私たち消費者の関係の話。消費するコンテンツの話。文章がドライブしている。いや、ドライヴしている。

 

私たちは──、いいえ、私は、コンテンツ消費の奴隷ではないはずだ。毎日見てしまうSNSの情報や、無料で視聴可能なYouTubeの動画、月額数百円を支払う事で見放題になっている数々の面白い映画や、毎日更新される無料で読める漫画。多い。多すぎる。とても人間1人には負えない。「人類は豊かになりすぎた」──というのは、主語が大きく検証が甘くていただけない。より控えめで身近に言うのなら、「私が日々扱う情報量は増えすぎてしまった。」扱う?扱うで合っているはずだ。

 

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いつか観たいと思ってリストに入れたままの映画、あの人が好きだと言っていたバンドの新曲、自分がハマった作品のネタ元だという小説、通史で重要だとされる、少し昔の作品。

 

それらを摂りたいと言っている割には摂って無かったりする。私は何をしているのか。

 

あとメディアとSNSと言及と「繋がる」意識の話をしたかったのだけど、今は無理そう。そのうちに書きたい。......これも先延ばしだろうか。

 

生存戦略

 

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