nakoは生きものだ

消費者、日記

文章1

文章を書く習慣が身体から失われた、抜けきってしまった、と思う。普段文章を書くタイミングは、例を上げれば、ツイート、ブログ、日記、メモ、リマインダー、レポートなどがあるが、このうちのほとんどを書くことなく、この数か月を過ごしてしまった。

 

一点訂正がありました。1月の終わりごろから、高校で同じクラスだった2人の友人と、LINEのグループに毎日日記を投稿する、という取り組みを始めた。午前4時までにその日の日記を投稿する。忘れてしまった場合は、罰として100円を何らかの形で募金しなくてはならない、というルール。もう4か月ほど続いている計算になるが、投稿を忘れたのは1回しかない。なんだかんだ言って、4か月も日記を書くのを続けられている。書く習慣が失われた、と書いたが、少なくとも簡単な日記のレベルでは続けられている。

 

日記の文面はたいてい、何時に起きた、気分が良い/悪い、天気の話、聴いた音楽と観た映画と読んだ本、筋トレをしたかどうか、くらいのものだ。

 

例として、3月後半に熱海や京都に旅行に行った日の日記を引用してみようと思う。

 

3/22 火

 

"10時起床。だらだらしたあと新宿へ。紙の文庫本をめくる。雪の新宿を見たかったが、少し遅かった。スタバでデカフェの温かいやつを飲む。まあ、うまい。

合流してからは新宿のTOHOで「ザ・バットマン」。内容はかなり面白かったけれど、貧乏ゆすりかシアターの関係か地震か、座席がめちゃめちゃ揺れて、うまく没入できなかった。内容はトランプ以後のお話だなと思う。

そのまま帰ってもよかったのだけれど、節電がどうこう言っているのが嫌だったりして、熱海へ。まあ熱海(静岡東部)も東電の管轄だったから、逃げられてはいないのだけど。

ホテルで飯など。明日は適当に過ごしたい。"

 

3/23 水

"9時起き。だらだらしつつチェックアウト。熱海の海を観る。そのまま京都へ8時間かけて鈍行列車で進む。文庫本は森見登美彦。"

 

3/24 木

"京都2日目。チェックアウトと睡眠欲の戦闘があった。結局、その時間にうつらうつらして夢を見るのが一番気持ちいい。

人と会う予定があったが、それまで暇だったのでただひたすらに川を見ながら時間を潰した。2時間くらい。川は落ち着く。

その後はフォロワーに会い、散歩や近況の話、本屋やラーメン屋などに。天下一品の総本山、はじめて行けた。総本店の方が(今まで食った天一よりも)うまい。間違いない。

その後はホテルに帰って風呂。サウナがあれば最高だったが、まあそうはいかない。そのあとはYouTubeや本など。筋トレは、流石に今日は歩きすぎたので休み。明日の夜に深夜バスに乗り込んで帰ります。”

 

3/25 金

"京都3日目。9時ごろにぬるりと起床。またモーニングを食べ損ねる。

なんと言ったっけ、ええと、そう、加湿器の存在がありがたいなと思った。プラズマクラスターのやつ。アレのおかげで花粉によるモーニングアタックも喉が痛くなることもなかったし、部屋に欲しいなあと思う。

ゆっくり準備をしてチェックアウトギリギリにホテルを出る。川を見つめる。人と会う。歩いてラーメン行ったりカラオケ行ったり。楽しい。「分かち合える」人は確かにいるのだ、と思う。

その後、ノリで大阪へ。ベトナム料理の店へ。フォーという食べ物をはじめて食べた。うまい!あっさりしていてペース良く食べられるけど腹持ちも良くて、バランスが良い料理だった。

その後は京都に戻って、サウナの梅湯という温泉へ。街に溶け込んだ銭湯、という感じで、古き良きという言葉が似合う。駅によってお土産を買ったりして、深夜バスに乗り込む。

ホテルに帰っていないので、筋トレはなし。ここ2日できていない。明日から取り返す。"

 

適当で、文末の表現やらに一貫性も何もないけれど、書くべきことは書けているだろう。振り返って、どういうことがあったのかは把握できる。その一方でどう思ったかとか、どう感じたかとかはあまり書けていないように見える。

 

何はともあれ、すごい、案外書けているではないか。日常的に文章を書く場所があって、そこに文章を出力し続けられている。文章の拠点、ホームグラウンド、のようなものが出来ている。

 

ただ、ある程度の長さの文章を真面目に書く筋肉は衰えている。キーボードに手を置いてみても、手が動かない。ぼーっと画面を眺める時間だけが続いて、そのうち頭が痛くなってくる。書けない!無理だ!やめておこう!

 

書けない理由はいくつかあるが、そのうちでも大きな理由は、インターネットや社会の「正しさ」を私がインストールして内面化し、書く文章を常に自己検閲(あるいは校閲)している点にある。より端的に言うならば、「クソリプ防衛機構」の過剰な運用がされているのだ。

 

インターネットや社会の「正しさ」というのは、これを言葉にするのも酷く恐ろしいが、例えばポリコレに配慮するとか、(それが当たり前で、それが出来ない人間は「アップデートされていない」とか)、環境に配慮することは当たり前で、SDGsへの積極的な取り組みが叫ばれている現状とか(SDGsとコラボ!とかSDGsのまち、とか)、ジェンダー的な平等に気を使う......「男だから」「女だから」を止めるとか......のことです。

 

上記に挙げたすべては正しいので、その正しさを検証する必要は無いでしょう。なぜなら何よりも正しく、その正しさは今度ますます社会に浸透し、スタンダードになっていくためです。我々は「アップデート」されゆく存在だからです。

 

ある種の人々にとっては、ここ数年での認識の変更が間違いなく先へ進んでいて、「アップデート」という語が示す通り、新しく、(おそらくこの語には「セキュリティ・アップデート」という文脈の上で使われているでしょうから)、より良くなっている、という認識があるためです。それは正しいので、正しいかどうかの検証は最早不要なのです。すべては正しくなるので。

 

話が脱線したような気がします。とにかく正しいことは正しいままに進められ、そのうち常識になり、正しくない振る舞いをする人間は「非常識」な存在として認識されるだろうということは、想像に難くありません。

 

とにかく、私たちは社会という盤上において、正しさのゲームのプレイヤーとして、最適な(正しい)振る舞いをしなければなりません。

 

多様性は大事である、と言わなければ誰かから(あるいは社会から)減点が発生するでしょう。男女平等からかけ離れた言動をすれば、何らかの社会的な制裁があるでしょう。そういったマイナスを避けるために、私たちはお互いに、唯一の例外なく社会のフィールドにおいて、正しさのゲームを進めるしかないのです。

 

落とし所がわからなくなってきたが、ともかく、正しさのゲームにおいて、文章を書くこと、特にインターネット上で発言することは、かなりのリスクを伴います。

 

文章の内に正しくなさ──つまり"スキ"を見せてはいけません。そうすると、どこからかリプライが、あるいはそのつぶやきを上書きするように、引用のつぶやきが飛んでくるかもしれません。それはまさしく「飛んで」きます。

 

正しくないことを書くと、無数のインターネットユーザーによって、その点を指摘されます。時代遅れだの炎上案件だの文脈も文章も読まないリプライだの......まあそういうものを、ここ数年、私(たち)は毎日見てきたと思います。

 

ここで、「私(たち)」と書いたのも、インターネット主語デカ取り締まり警察に捕まらないためです。どうしますか?「私たち」と素直に書いて、「それってあなたの感想ですよね?」「私はそうではないんですが」「勝手に巻き込まないでくれます?」というコメントが来たら。恐ろしい。恐ろしすぎる。

 

本当にインターネットが嫌になってきた。こんなインターネットやめましょう。せーのでインターネットやめましょう。せーのっ!