nakoは生きものだ

消費者、ティーンエイジの残弾、日記

君は永遠に

ブックオフで270円で売っていた『君は永遠にそいつらより若い』という小説が......刺さった......良かった?いいえ、この本と出会えたことに対して万物に感謝したくなったので、文章を書いています。ネタバレがあります。

 

これだ、と思った文章を引用した時点で文字数が1500字あり、本という媒体にはたくさん文字が入っていて、何時間かければ一冊の本になるだけの分量になるのだろう、と思う。

 

少し引用しすぎたなと思って、5,6くらいの文書を削った。現実的に文章を書き終えるにあたって、サイズが大きすぎても良くない。自分に取り扱えそうなくらいに落とし込まないとやっていけないのだ。

 

物語の中に自分を見出してしまう、というのは、さらにそれを自らが語っていくという形式は、とても痛々しい自己開示で、ともすればそれが原因で他人に嫌われることもある。作品についての話を自分の側に寄せて書く、という行為は、「勝手に自分語りしている」のと同義になってしまうからだ。でもまあいいか。そういう感じにしか書けないのだし。

 

"でも結局、そんな自分を責める気にもならない。選択のしようもなく、わたしはそうでしか在れなかったことがよくわかっているから。だいたい、わたしと同じようなことをしていても、器用な子なら持つべきものは持ってやることはやれているから"

"なんにしろ、わたしが並外れて不器用なのは、わたしの趣味ではなくわたしの魂のせいだ。"

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』P19

 

序盤も序盤にこの文章を読んでしまって、ああ、これはもしかしたら自分のための本かもしれない、という盛大な勘違いをしてしまった。自分は自分でしかない──というフレーズは大抵ポジティブな意味で使われると思うが、この場合ではただ自分は自分でしかなく、別に変更できるものでもないのだ、そして不器用なのは自分の外側にあるもの(趣味)ではなく、魂のせいなのだ、と。

 

この文章を一度読んで、自分もそうなのだと、自分もそうでしかないのだと、文章の前に立ち、告白するような気持ちになった。自分が不器用なのは自らの魂のせいなのです。他の何でもなく、神経とか遺伝とか環境とか、ましてや趣味なんかでもなく、ただひとつ、私の魂のせいなのです。本当にそうなのだ。おお神よ。ジーザス。

 

 

 

 

"しかし十九歳の時に、......(中略)人生は妥協が大切なのだ、と急速に軟化し、まず容姿が軟化し、男の趣味も軟化し、人間性も軟化していった。が、さらに今になって考えてみると、転換以前と以後の生活に何ら大きな変化が見られないことが判明し、所詮わたしはわたしなのだとがっくりきて、そしてすぐにどうでもよくなった。"

P97

 

そのとき自分が変わったような気がするが、後々になって、別にそんなこともなかったと気づく。所詮わたしはわたしなのだとがっくりきて......「そしてすぐにどうでもよくなった。」そういう執着がどうでもいい、まで突入してしまう文章のスピードが好きだ。

 

結局近眼的な見方で何かが好転したように(または悪化したように)見えても、時間全体を冷静に振り返ってみれば、大して変わったように見えないものなのだろう。気分の上下も、近眼的には(その時間を単線的に生きる自分にとっては)とてもシリアスな問題だけれど、たいていの原因は天気と気圧と季節とイレギュラーなイベントごとなのであって、長期的に見ればいつもそこそこに悪い気分が続いているだけなのだろう。そう思うと、少しだけ気が楽になる。

 

 

"どうして今になって、他の人から口づてにきくような破目になるのだ、と自分を責めた。もっと早く、もう一度あの人に会いたいんだ、会わせてくれと言い張ればよかった、そんなことをわたしのような人間が言うなんておこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば。"

P192

 

......おこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば。これはコロナ禍にあって特に主体的に行動しなかった自分......いえ、これも欺瞞です。自分の半生全体に対して言えることだ。色々なことに「それは傲慢だ」とか、「おこがましいとは思わんかね」と常々思っていて、しかし(だからこそ)自らからは何もしない。主体性の欠如。

 

「自分を欺瞞している暇があれば」という金言を毎日呟きつつ生きていきたい。そのように自分を欺瞞している暇があれば......。「コロナ禍ですからね笑」そのように自分を欺瞞している暇があれば......。自分が何かすることがおこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば......。

 

 

"わたしは全力で首を振り、自分でもなんで首を振っているのかわからなくなるぐらい振った後に、もういいよ、という曖昧なひとことだけが口をついた。そしてすぐにそんな自分を恥じた。より正確に言うと、自分を恥じることに逃げ込んだ。"

P208

 

「より正確に言うと」「自分を恥じることに逃げ込んだ。」

自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。......

 

映画版も観たのですが(劇場で)、舞台が京都から東京に変更されていることと、時代が2000年代から2019年に変更されていて、スマホSNSが平気な顔をして出てくることに耐えきれなかった。自分はスマホSNSが嫌いなのだと明らかになっただけ、収穫かなと思う。小説ではガラケーじゃないといけない必然性が、そこにあったはずなのに。iPhoneやLINEの通知音が、どれだけチープに映るのか、ちゃんと製作陣は考えたのだろうか。きっと考えたのだろう、そのうえで舞台を現代の東京にしたのだろう。ただどうしても合わなかった。

 

原作を読まずに映画単体で見たら評価は高かっただろうけれど、原作を2022年に読んでから映画を観る、という流れにおいては、映画は心底最悪な印象だった。涙が出た。ニンテンドースイッチぷよぷよをしているイナギさんに。絶望だった。そういうものなのだろうか。いや、そういうものなのだろう。