nakoは生きものだ

消費者、ティーンエイジの残弾、日記

生活再生産性

はじめに

 

 

 

 

 

 

生活再生産性:セイカツ-サイセイサン-セイ

 

 

 

 

 

 

生活・再生産・性

 

 

 

 

 


『再生産』とは、生まれ変わることである。今ある己を、ありとあらゆる方法で、こわし、殺し、燃やしつくす。

 

再生産とは、そこから蘇ることだ。一度死んで、蘇る。それは概念的な「死と再生」の、現実的で下流に位置する手段である。つまり、わたしを新たなわたしに連れていく儀式なのだ。


これを生活に導入し、「再生産・性」と呼んでみることにする。ふわふわの概念に思われるが、端的に言えば、新しいことしよう、みたいなことである(こんなゴミ文章を目に入れるより『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』を観てほしい。あなたの再生産性のために)。


生活再生産性を高めるとは、人生を豊かにしていくということ。もっと簡単に言うならば、投資的・投機的な消費をするということだ。


よりよい人生のために、生活の再生産・性を高めていきたい。よって、以下にそのための取り組み案を書くことにする。


わたしは生き続けるために、何度だって死ななければいけないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

取り組み案(仮)


1.消費

いつだって人生は消費からはじまる。生まれてからも、生まれる前も、死んだ後も。母体から栄養素を得ることは消費だし、死んだ後の葬式やらのあれこれも、人間の骸が消費されゆくさまの儀式的・呪術的演出なのだから。この記事でも、(いつものように)消費からはじめていこう。


・映画代をケチらない

 最近、映画館で映画を観ることにハマっている。「映画好き」を自称するほど自意識は暴走していないが、なんだかんだ1週間に1本は観ている。これは大学生になった影響が大きい。

 

 大学生になると自由度が増えると言われるが、何が一番自由になるか(そして自己責任的になるか)と言えば、それは平日の過ごし方である。

 

 高校まで、平日の拘束性は高かった。長期休み以外での平日の休みはまれで、それは振替休日と呼ばれるような、土曜日に学校の用事があった日の代わりの休みしかなくて、とても貴重なものだった。

 

 大学では全然違った。平日に休み性を見い出すことは、自分の履修状況からは水曜日以外ならすべて可能だ。月火木金は午前授業で終わるから、午後から映画を観ることだって可能だ。これが自由で自己責任なのだと、日々実感している。

 

 話がそれたけれど、とにかく映画代をケチらないことを意識・実践したい。コンテンツ消費の話だと「本は待ってくれる」と人は言うが、映画は、終映は、待ってくれないのだ。

 

 瞬間的なモノのためにリソースを消費していることを、「刹那主義」とか「合成の誤謬を理解していない」とか言われそうだけど、実はそうでもない。映画との出会いで人生が、どうしようもないほど、それは死んだ人間を生き返らせるくらいどうしようもないほど、変わってしまうことがあるからだ。本とか漫画とか曲とかももちろんそういうことはあるのだけれど、映画館で観る映画には何よりも瞬間性があって、どうしようもなさがあって、だから金と時間を「今ここ」に消費する、合理性を超越した理念が働くのだ。映画代をケチらないということ。人生を豊かにするということ。

 

 今でいえば、とりあえず『DUNE/デューン 砂の惑星』と、『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』は観たい。金を払うということを、ためらわないでいたい。適正なものに適正な価格を支払わなければ、人間の感性は安くなっていくのみだからだ。

 

・メガネの買い替え

 今のメガネは、もう2年近く使っている。そもそもモノとして汚くなっているし、自分の視力とメガネの相性が落ちているように思う。更には乱視的なところが年々厳しく、つまりモノの一点を見る、見続けるのが難しくなっている。これは文字や文章を読むことも、漫画を読むことも、映像を見ることも、広告や絵画の分析も難しくなることに直結している。

 

 「見ることは原初の消費である」とはわたしのツイートであるが、実際自分自身「見る」という精度や解像度が弱すぎるのである。これは目の問題というよりかは脳の問題なのだけれど、できればメガネで解決されてほしいという願いがある。

 

 今こそ買い替えのときだ。コンタクトにしてもいい。何はともあれ、自分には来月、月ノ美兎の1stワンマンライブ「月ノ美兎は箱の中」に参戦するという、大いなる試練試験あるいは最高消費体験が待っている。そのためにも、「見ること」を回復させたい。


・CDプレイヤーを買う

 逆張りと言われればそうなのだろう。サブスク全盛期と言われる時代において、コンテンツを物として所有していたいのは。でもアメリカでレコードの売上がすごくなってるみたいなことも聞く。みんな考えることは同じなのかもしれない。(模倣は流行を生み、流行は模倣を生む)

 

 CDプレイヤーは家族共有のものがあるのだけれど、そこからスマホにインポートする術がなさそうなので、なんとかデジタルデバイスに取り込めるようなプレイヤーが欲しい。

 

 CDで最近何を買ったか、あるいは買う予定があるかって、「匿名ラジオ炎の章」とか「月の兎はヴァーチュアルの夢をみる」とかアイドルマスターシャイニーカラーズのCDとかという、まあキモオタラインナップで、いわゆる邦楽好きを自称する方々がSNS上でセルフプロデュースするような用途とは全く別ものなのだけれど。

 

 CDプレイヤーという、価値を生み出す資本を生活に導入することで、その活用としてのCD購入がはかどり、豊かな人生を導いてくれることに期待したい。

 

・スニーカーを買う

 スニーカーと足が合わなくなってしまった。数時間履いて歩いていると結構足が痛くなる。纏足みたいな気分になる。そんな靴でこの前、東京タワーの外階段・約600段を駆け上ったら、足が破壊された。とりあえず靴を変更するべきである。

 

 どういう靴を買えばいいのかは、春ごろに購入した『服が、めんどい』という本に書いてあることを主に参照しようと思う。まだ自分はファッションなるセルフプロデュース大会・演出論に生身で突っ込む気概がない。

 

 再生産性が高い靴を買って、履きたい。いいえ、履きたい靴を履けばいいのですが。厚底のブーツとか履いてみたいんですけど。

 

・イヤホンを買う

 もうAirPods一択しかないのではと思わざるを得ない。今使っているイヤホンは、どんな条件でも数秒音が途切れる瞬間があって、ダメさを感じている。自分のイヤホン利用は、iPhoneiPad、PCと動的に使い分けをしているから、そこで発生するめんどくささもある。現在使っているイヤホンは「soundcore liberty air 2 pro」で、メルカリでざっと見ると¥5,000-¥10,000で売れそうだ。再生産性が高いな。再生産性には「十分に転売可能かどうか」も含まれているような気がします。換金して新しいモノを買えばそれは再生産的だし。そいつは死に果て、生まれ変わるわけだし。

 

 そういえばもうすぐAppleの新作発表会があるようなないようなという話を見かけた。とりあえずそこまでペンディングだ。

 

・腕時計を買う

  これもまたApple Watch一択ではないか。外を出歩いているときに、時刻を確認するためだけにiPhoneをポケット取り出すのにバカバカしさを感じているのだ。持っている腕時計はほとんど壊れている。Apple Watchは新品だと3万-5万くらいするっぽい。

 

 FaceIDのロック解除にも使えるらしいから、その面でも欲しい。だってマスク社会、あと5年だし。

 

Macを買う

 限界までApplize(外側も内側もApple化すること)されてもいいかもしれない。他人からの見られる力を意識するより、純粋に自分の願望を優先させてもいいと思うのだ。考えすぎるからいけない。考える前に動くようにしないと、豊かな人生は、己は、ひらかれない。

 

 クリエイターもどきになれそうでかっこいいし。もう何者にもなれないので、わたしは。もどきでけっこう。

 

2.外見的特徴

わたしはまだ現実で、現実の肉体で生きていく。そのためには外見を整えること──すなわち人間的であることは重要だ。あまりにも重要すぎる。どうしようもないくらいに重要すぎる。人間は、まず見た目で人間か否かを判別しているからだ。「自分が何者か」の問いは、そもそもここから遠いところにあるから置いといて、人間性のオーディションには合格したい。


髪を切る

 切りたいではなくて、切らなければならない段階に来ている。最後に髪を切ったのはいつだっただろう。少なくともホットペッパービューティーのアプリが自動でアンインストールされるくらいには髪を切りに行っていないらしい。

 

 ざっくり思い出した結果、7月中旬から髪を切っていない。3ヵ月美容室に行っていない人が、清潔感ともなう外見であるはずがない。これは非モテのあれこれで、イヤというほど語りつくされているのだろうけれど、清潔であることと清潔感を演出することは全く違う。非モテのあれこれでは(非モテという単語を使いたくないな)とりあえず清潔感を演出するために美容室に行けというありがたいアドバイスがなされることが多い。はい。

 

 とにかく毛量や清潔感の問題から髪を切りにいかねばならないことは確かだ。これは来週中に解決しよう。

 

服装

 もうすぐ冬になる。秋をすっ飛ばして。冬は服装を選ぶのが楽だ。寒ければ着こめばいい。けれど日常的な冬の装い、つまり大学生の冬服へのイメージも実現性も不確かで、わたしはこの冬を人間的にやり過ごせるだろうかという疑問がある。

 

 けれどなんとかやっていかないといけない。服装の再生産性を検討し、まずは人間として見られるためのファッションを他人に提供する必要がある。自分らしさなんてそのあとだ。

 

眉とか脱毛とか

 現代では、「毛」は疎まれるものだ。髪の毛が例外的な評価を受けすぎな気がするが、そこは人間の身体に残っている、最後の神秘性なのだろう。

 

 とりあえず、眉サロンなるものに行けば顔の印象が変わると聞いたことがある。再生産性もあるが、未知への挑戦として行ってみるのもいいと思う。

 

 脱毛だが、これは朝、ひげを剃るという本当に面倒くさいことへの根本的な対処法になり、それは剃る時間を削ることなので、かなり再生産性が高いといえる。ともかく、脱毛は学生のうちに終えておけば、残りの人生がちょっとだけ幸せになることが予想できなくもない。1、2年以内に実行したい。金があれば。

 

歯とか

 わたしがうまく笑えなくなってしまったのは、マスクのせいでもあるけれど、それ以前に歯が汚いことが原因だ。歯並びはまだいいほうだけれど、これまで飲んできたコーヒーや紅茶による影響で、かなり歯が黄色い。ホワイトニングによって自信を取り戻すべきだ。

 

 何より親知らずのあれこれをしていない。成人までにはしたほうがいいよ、と医者に言われたこともある。なるべく早めがいいのだろうか。

 

 大学と提携していて、診療費が無料になっている病院もいくつかあったような気がする。使わない手はない。とりあえず行ってみよう。考える前にとりあえず動くのが大事だ。考えてもしょうがないんだから。

 

 

3.内側のあれこれ

外側も大事。内側も大事。


睡眠の質の向上

 最近、自律神経がピンチだ。特に睡眠に関してはヤバく、40時間起きて16時間寝るみたいな生活をしている。終わりの生活。だから自分がダメ状態になってしまったのだ。

 
 良い睡眠環境の作成、入眠準備、『スタンフォード式 最高の睡眠』とかをあたってみるのもいいだろう。近年の本のタイトルでは、スタンフォードが安売りされている。そこに大した権威、ないと思うのだけど。まあ、なにかと現代の『まあけてぃんぐ』は、消費者のことをバカにしすぎている。


コミュニケーション能力の向上

 今、Twitter Spaceがアツい。とんでもなく素人コンテンツであることは確かだ。そこにはマネタイズの雰囲気はないし、その動線もない。フォロワー数が4ケタとかないし、プロ性がない。wikipediaにもまとめサイトにも名前が載らないような人間が提供するコンテンツだ。でも今アツい。

 

 そこでは3つの役割がある。すなわち、ホスト、スピーカー、リスナーだ。

 

 このうちリスナーは、基本的に何も求められない。観客だからだ。観客は求めることはあっても、求められることは少ない。最低限のマナーくらいなものだ。普通の消費者でいい。というより、消費していればいい。

 

 問題があるのは、ホストとスピーカーだ。ホストの概念の中にスピーカーが包含されているからスピーカーから書いてみる。

 

 「ただ話すだけ」と思うことなかれ。独り言ではいけない。話し手-聞き手の環境は常に成立しているし、そこではインターネットリズムのコミュニケーションと、現実のフォーマットとしての会話を意識する必要がある。難しすぎる。

 

 これがホストとスピーカーで雑談する、みたいな感じだったら何も気負いしなくてよい。でも、番組風に──コンテンツ・パッケージ化されることを前提に──スペースにホストやスピーカーとして参加するとき、これは、本当に、まずくなる。

 

 眠くなってきたのでざっくり結論を書くと、素人コンテンツであっても消費者を、観客のほうを向かないということは不可能であり、そこには自分をコンテンツ化し切り売りする必要性が生じる。ここでのコンテンツ化とは、すなわち声である。スペースでは声を磨く必要が出てくる。眠い。

 


4.その他

自慰行為の頻度をあらためる

 自慰行為は生産的ではない。再生産性もない。というよりは、世の中では、子どもを産むシステム以外の性的なものは、すべて生産的でない扱いを受けている。

 

 それは嘘だとしても、自慰行為に生産性がない。というか逆・再生産性がある。ダメさを加速しているところがある。

 

 どうしようもなく消費的行動である自慰を、なんとかすることこそ、再生産性のある人生を歩めると考える。


『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』を観劇する もう俺にはスーパースタァスペクタクルしかない。

 

スーパー スタァ スペクタクル - YouTube


おしまい


つまり、再生産とは、人生するということだ。わたしはもっと自分に、人生していいと思っている。


列挙したものが脱・オタク的なものが多かったけれど、それは間違いなく再生産なのだ。オタク的外見によるナメられの発生や、人間として見られないことから脱したい。


結論:新しいことしていこう!

 

 

 

 


参照先


血肉になったもの:『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』

BGM:『再生産

https://www.youtube.com/watch?v=IJEo0az_308

 

 



見られなくてもいい媒体としてのはてな

どうしようどうしようと方法を思い浮かべてそれらを眺めていたら、書くことしか残っていないように見えた。閉じた系を脱してどうこうという方法より、閉じた系からひらかれた系にアクセスしようとしている。書くことしかなかったのは、書くということはInstagram的でもTikTok的でもなく、Twitter的だからだと思う。

 

端的に言って、本格的に、人生史上最大に、ダメになってしまった。どうダメかって、書いている以上、書くというフォーマットから逃れられない以上、抽象–具体的なアプローチとして書かなければいけないようなんだけれど、まあ。

 

大学を後にして音楽を聴き始めたら、涙が出てしまった。泣いた理由は音楽ではない。綺麗じゃない涙だ。フィクショナルな美しさなんてどこにも見出すことのできない、言ってしまえば、大衆的な評価、Twitter的なバズなんてありえない涙。泣き方。男の泣き方って美しくないからな。男だったら泣いてはいけないし、俺は長男なのだから、耐え切らなければならない。声を上げない泣き方はいつの間にか身につけていたから、両目から、内側から水が出てきて、きっとこれも重量で落ちていく。落ちていった先は、ごめん、マスク社会だったから、マスクに水が吸収されて、ぐちゃぐちゃになる。

 

ターミナル駅について、向こうから人がやってきて、見られる力、見られることを意識する。涙は止まらなかった。

 

メガネを取った。取ったら街が見えなくなった。情報量が減った。幸福になった。

 

音楽を止めた。iOSのバックグラウンドサウンドで耳を覆った。情報量が減った。幸福になった。

 

駅から、別のキャンパスに行った。目的の駅について、そろそろ心を落ち着かせようとする。目と耳を削いで、深い呼吸をする。呼吸をする自分を見るのではなく、ただ呼吸をするという動作だけに集中する。メタは挟まない。動作そのものに意識を向ける。

 

大学図書館についた。本を借りる。帰りの電車に乗り込む。意識を失いながら揺られる。腹が減ったのでラーメン屋に行く。食べ終わる。ちょうどいい腹具合。

 

帰る。家に着く。水を飲む、風呂に入る、課題をする、眠る。明日も1限だった。

 

アラームで起きる。止める。起きなければ。体が動かない。対面必修があるのだから動かなければいけない。動けない。大学を休んだ。サボりだ。そのまま眠った。

 

12時に起きて、2時間くらい起きて、6時間寝た。起きた。起きている。起きていたらダメだった。涙が出てきた。もうダメなんだと思った。もうダメだけれどダメと付き合っていけないことを思い出した。

 

たぶん自分は見えすぎていて、考えすぎている。だからダメなのだ。だから眼鏡をはずして何も見ないことと、イヤホンをして曲も流さず環境音を自分にそそぐことが幸福なのだ。

 

考えすぎてはいけない。自分へのメタも、まわりへのメタも、やってはいけないことなんだ。考えている自分を考えている自分を考えている自分......の合わせ鏡状態がダメなんだと思う。

 

少し前まで泣いていたけれど、泣いているときは、頭の中でミサトさんが今泣いてもどうにもならないわと言っていたし、泣いている自分に酔って気持ちよくなっているだけでしょう、と頭の中の何者かに指摘されていた。そういうことを無くすべきなんだ。いらないんだよそんな機構。客観や俯瞰や接続はいらないんだ。自分はただ泣くこともできないんだと悟った。なんて、不幸。

 

考えないことが幸せだ。何よりの。内側の動きをせず、認識もせず、ただ肉体を動かすだけなのが幸せだ。ゾンビ化すればいい。昔、陽キャと呼ばれる人たちは何も考えていないように見えるとどこかで書いたけれど、それは幸福だった。目指すべきものだった。自分について考えない。それが何より、いい。自分の消費態度なんて目を凝らさないのがいい。人生について考えないのがいい。他人について考えないのがいい。社会について考えないのがいい。それがいい。

 

もっと自己責任的に、自助的に、マッチョ指向で、食い散らかし、殺すような、他人に迷惑をかけることを迷惑だと思わないような、生き方を、したら、もっと何より楽で、今から抜け出せる。それがこれからのスタンダードになるだろうし。

 

つまりそれは、大きな力に期待しない生き方だ。政治とか社会とか他人とか、そういう力を持った基盤に期待も希望も持つことなく、自分の小宇宙を大宇宙に拡大し、それのみで生きていくということだ。救済を待たない生き方だ。そもそも救済があるという希望にしがみつかない生き方だ。己だけ完結する、生き方だ。

 

全体的にそうなっていくと思う。コロナ禍と政治と経済と社会モデルと規範とフィクションと雰囲気で。そうならざるを得ないのだと思う。適応だと、適切に言いくるめられるのだと思う。それが良い悪いではなくて、そうならざるを得なくて、そうでない世界を想像する能力は奪われ消え失せる。それが、幸福だ。

 

幸福について考えないのが幸福なんだ。言葉は、一義的で一様的で一意で唯一で絶対でまがりなくて間違えなくてズレなく完璧で完全で、あわいなく隙間なくズレなく、世界をまるごと記述可能な統一言語だったら、きっと幸福なんだ。

 

幸福について考えないでいようと思う。何も考えないでいようと思う。何も考えないは言い過ぎで、考える自分について考えないでいようと思う。何もしたくない。

どれほどの速さで

はてなはダメだよね、と言いたくなる。間違えてiPadでnoteを開いてしまったのだけど、はてなのアプリとの差が激しすぎて、そりゃシェア奪われるよな、と思った。見やすい、使いやすい、動きやすい、書きやすい。アプリが評価のすべてではないけれど、それでも力の差があるように思う。

 

月曜日から対面授業が再開する。それまで単なる「授業」だったものが、オンライン化、インターネット化によって、「対面授業」に落とされたのは、なんとも言い難い気持ちになる。それまで「対面」授業なんてなかったはずなのに。

 

1限がある日、明日は5時半に起きる必要がある。なのに今日は入眠ガチャに失敗して、何もできなくて、布団の上で五体投地の姿勢になって、心が枯れていった。自分の心が枯れていくのを見ていた。このままではいけないと思いつつも、苦しい心を追いかけていくうちに秒速5センチメートルが観たくなった。加入してるサブスクサービスでは観られなかったので、AppleTVでレンタルした。そのうちBlu-rayで買おう。

 

この作品は、自分に多大な影響を与えてしまった作品でもあり、変化を意識するためのベンチマークでもある。作品から与えられた影響は、自分の文法や語彙に深く根付いているように思うし、人生の重要な選択にも関わり、永遠について考えるようになってしまった、などがある。酷い話だ。あとは年に2回くらい観て、その時々で新しく感じたことがあって、変わった部分、得たものだったり失ったものだったりを確認する。そういう作品。

 

2時なのに作品を見始める。愚かしい。

 

スルメ作品だ。何度観てもおいしい。回を、時間を重ねる楽しみがある。当時、自我をちゃんと持っていて、劇場で観れたなら......。でももう少し生きていれば、どこかの劇場で再上映するかもしれない。その時は初日に足を運ぼう。

 

新しく感じたことは、これも「列車は必ず次の駅へ」だとか、カット、暗転、場面チェンジの方法だとか、桜が永遠の象徴だったこととか、宇宙についてのこととか(自分はコスモナウトを軽視しすぎだ)、少し見慣れてきた東京の景色とか、コンビニは微分的に変化しているなとか、地獄で生きていくこととか、積もった雪を踏む音ってこんなにクリアだったかなとか、カラスと太陽と世界の秘密だなあとか、今さら気づく明里と花苗のかわいさだったりとか、光と風の使い方とか、恋も愛も自分にはもうダメだなとか、One more time, One more chanceがかかるシーンって、音楽+場所(コンビニ)+雑誌(宇宙)+季節(雪)で記憶の保存-読み込みがすごいなとか、やっぱりいい終わり方だなとか。

 

3時すぎになって文章を書いているけど、とにかく眠くて、バッテリー切れ寸前だ。眠る時間はない。もういい、始発で大学に行こう。電車とマックあたりで寝よう。

 

眠くて何も書けないな。書きたいものなんて本当はないのですが。書かなくて良いのなら何も書きたくない。なんで書くのか。

 

さっき、「列車は必ず次の駅へ」と書いたけど、これは完全にスタァライトの文脈が体に定着してしまったことの証明で、意識的な部分で言うなら「秒速」より強いんじゃないかと思う。4ヶ月間上映され続けているけど、何回観ただろう。たぶん、6、7回。自分の劇場視聴回数で最大だ。その後はシンエヴァ・花束・エンドゲームなどが続く。

 

自販機にコーヒーを買いに行く。無印のコーヒーの粉がすぐそこにあるけれど、外に出るインセンティブも兼ねて。

 

午前3時に外に出たら、世界はどうしようもなく午前3時だった。澄んで、水をたくさん含んでいる空気、それがもたらす寒さ、冬の予感。空を見上げれば星々はイヤってくらい輝いていて、メガネ越しに伝わる光を浴びて、星を目指してもいいのか、と思ってしまう。自販機も結露(この辺の単語がよくわからない、中学理科の飽和水蒸気量とか苦手だったな)していて、日が昇る前の午前に満ち満ちている。言葉で記述するの、どうしようもない。これもどうしようもない。ブルーピリオドのことも書きたいな。青の時代で、青のおしまいの漫画のこと。

 

秒速とスタァライトを絡めて何か書くとすれば、塔、星(宇宙)、列車、地獄で前を見ながら歩き続けること、とかだろうか。要素の指摘ばっかりしたってしょうがないのだけれど、それが自分にとっての精一杯だったりするので、もう少しだけ許してほしい、とどこかに願っている。どこに?

 

塔も星もアンバランスだなあ、塔は新海誠作品にまで拡張すれば存在強度は増すけれど、作品単体で見るとスタァライトとは釣り合わない。星はスタァライトでは非常に重要だけれど、秒速ではあんまり重要でもない。列車は舞台装置としてどちらも重要で、地獄......は勝手に感じ取っていること。本当に書くことも思うことも考えることも下手。限界が見えている。

 

劇場版スタァライトのスーパースタァスペクタクル/最後のセリフについて、人生を費やして書きたいな。たぶんしばらく自分のベストフィルム、ベストシーンになるだろうし。7回観ても毎回涙を流してマスクをぐちゃぐちゃにして、嗚咽混じりで箱を出ているし。毎日スーパースタァスペクタクルを聴いている。起きて、無理だ、動けない、でも生きている、となりつつ、スーパースタァスペクタクルを聞いて起き上がる。維持を張ってなんとかやっている。というか、スーパースタァスペクタクルが「生きるための音楽」になってしまった。みなさんもあるでしょう、みなさんだけの「生きるための音楽」が。生命の肯定にも近くて、曲に引っ張られてしまうことなんてザラで、なんとかやっていくための音楽が。音楽が生きるためにあると言ってもいいのだけれど、その中でも、「生きていくため」、「生き続けるため」、命に薪をくべて、自分なりの躍動をするための音楽。生きるための音楽。

open.spotify.com

 

できた。プレイリスト「生きるための音楽」が。中身、新しい曲ばっかりだ。きっとこの中身も時間とともに移り変わっていくのだろう。

 

みなさんの生きるための音楽も知りたいな。教えてください。聴きます。

 

生きるための音楽を流していたら、なんだか生きてみたくなってしまった。実は5時前に書き上げてアップした後、後半書いた部分が丸々吹き飛んでいて、今書き直している。バックアップもわからない。書いていたときのライブ感が失われて、同じ文章を生成できない。

 

けれどたぶんこういうことを書いていた。

 

生きるための音楽を流していたら、生きてみたくなってしまった。愚かだ。単純だ。浅い。いつまで経っても浅瀬人間だ。けれど、それでいいのかもしれない。生きたくなったら生きてみて、生きるのが苦しかったら、命を継続させることを考える。いいや、それは現状の肯定でしかない。

 

人生をやり過ごすように生きている。それでこれまでやってきてしまった。それは人生の生き方でもあるが、人生はそれだけではないはずだ。

 

生きていくための音楽を脳に注ぐ。陽が登ってきた。今なら少しだけ、ほんの少しだけ、魂のひとカケラくらいだけ、なんでもできそうな気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

履歴が消えて、もう一度同じものを書こうとしたけれど、どうも無理そうだ。同じ文章は二度書けないらしい。

 

苦しいだけ

苦しい。死にたいとかではない。人生に絶望しているわけでもない。ただ、苦しい。

 

例に漏れず、私もここ1年半で「健康」を意識し始めた。保健の教科書に散々書かれている「食事・運動・睡眠」に気をつかうようになった。食事は、朝、バナナや卵を食べるようにしているし、運動はスクワットやランニング、でなくとも毎日1時間程度は散歩をしている。睡眠は好きなだけとっている。昨日は累計16時間くらい寝た。

 

それを推し進めれば健康を達成できると思っていた。しかし違った。生理的欲求を満たしてもしょうがなかったのだ。問題はより複雑で、単純なところにある。

 

何が苦しいのですかと問われても、ただただ苦しい、疲れたとしか言えない。「なんか、疲れてしまったんですよね」をここ一年で何度言ってきただろう。

 

人生に絶望はしていない。何があっても、望んで生まれたわけでなくとも、「それでも生きていかなきゃいけないんだ」という信条は、己のうちに根付き、確立している。始まってしまった責任、どうしようもなさ、そういうものに苛まれたとしても、生きていかなきゃいけない。だから、(しばらく)自分で死ぬことは絶対にない。

 

ただ、絶望はしていないだけで、希望を持っているかと問われたら、答えに困る。そのへんに転がっているのだろうけど、まだまだ希望などというものは見えそうにもない。

 

第一、自分には諦観が蔓延っているのだ。ほとんどの諦観をなんとか支えて、絶望しないよう、「それでも生きていかなきゃいけない」と自分に言い聞かせている。けれどそれで諦観が消えるわけもなく。

 

親ガチャ──あんまりこの話はしたくない──も、諦観の塊として生まれ、生き続けた言葉なのだろう。「世界は良くなっている」ことを実感できなくなった若者世代と、快楽としてのソーシャルゲーム、その中にあるどうしようもなさとしての「ガチャ」、他人と比較する/されるのが容易になったインターネットやSNS。ヘラヘラ笑いながら、どうしようもないよね、という意識が詰まっている語、それが親ガチャ。ひどい諦観の中にあるわたし。

 

何度でも叫んでいたいけれど、私は人生に絶望はしていない。試行回数を設定しなければ期待値が無限になるように、「生きていればいいことがあるよ」と適当をほざいている。過去を振り返ればたしかに「いいこと」はいくつかある。けれど振り返ってみると、それら幸福と呼ばれるものは人生の瞬間を占めているだけにすぎず、日々を過ごす苦痛をごまかすインスタントな快楽として消費されゆくものだった。幸福は瞬間的であり、持続しない。少し前の自分、きっと中学生の頃だ、は、「そういう「生きていてよかった」のために生きるんだ」と誰かに言った記憶がある。

 

本当にそうだろうか?日々の苦痛が報われるように感じてしまう瞬間を求めていることを、「そのために生きるんだ」と言って良かったのだろうか?ごまかしの麻薬を求める人生を、讃えて良かったんだろうか。

 

苦しい。ただ、「苦しい」と思ってしまうと、条件反射的に脳内のインターネット化された部分が「甘え」と返してくる。うるさいなあ。

 

この苦しさは私だけのものなのに、他人がそれを測定し、比較しようとしているのを感じる。お前は苦しさ度2、俺より全然苦しくない──と。本当に、うるさい。私はただ苦しいだけなのに。

 

人生に絶望してはないけれど、社会には結構絶望をしている。社会をもっと言い換えれば、政治になってしまう。インターネットで政治の話をすると、「そういう人」に見られてしまうから嫌なのだけど、まあ、絶望しているし、いいか。この考えは個人の勝手な意見であり.......と書こうとした自分に、そういう文章が求められている(気がする)不自由さにイライラする。私はどこに向かって書いているんだ?そういう断りをいちいち入れないといけないのか?ああ、生きづらい。

 

この1年半で、なるほど、あなた方は私の方を向かず、救う気がないのですね、と思ってしまった。勝手に救われが発生するのを外側に期待している自分の傲慢さを、今まさにインターネットに指摘されている気がする。仕方ないじゃないか。私はずっと昔から救われたくなってしまったのだ。

 

まともなことをまともにしてくれればいいものを、その願いが無視され続けたように感じて、そういうものが維持され続けてきた人間社会にも嫌悪感を抱き、疲れた。完全にはてブの影響が強く、それに操作されているような気もするけれど、「もういいや」って思ってしまった。はてブはアンインストールした。もういいや。

 

not for meになってしまった政治(そんなことがあっていいのか?)に疲れてしまい、絶望した。選挙だけは行くようにしようと思っている。

 

社会への絶望で言えば、まあ他にもある。内向きの「日本スゴイ」はその最たる例で、見かけるたびに「日本キモい」と反感を抱く。「日本人受賞」とか「海外から見た日本のスゴイところ」とか。あなたたちは何から目を逸らしているのですか?

 

閉会式で「上を向いて歩こう」が流れたのは、私に酷い絶望を与えた。現実を見ないために歌われているようにしか思えなかった。気持ち悪かった。

 

ああ、振り返ると、オリンピックは自分にストレスを与えるために開かれたのかと錯覚しそうになる。なんだろう。どこに正しさがあったんだろう。あれで希望を持てた人がいるのか。いるんだろうな。

 

こういうことを言う時、「社会に対して愚痴を言っても仕方がないんだから自分から適応していけ」というカウンターが入ることを私は知っている。はい。すみません。私は今後、社会なるものに適応すべく、自助と成長を目指し、頑張ります。わ〜い。

 

人間社会に酷く疲れていて苦しいのは、きっと自分が人間を演じる能力が低いからだ。人間社会が規定する人間とは、「他人に迷惑をかけず、自ら価値を創造する」人のことだ。逆に言えば(逆?)、「他人に迷惑をかけ、自ら価値を創造しない」人のことを、人間と認めない。だからこそ、メンタリストはホームレスについてあんなことを言ったのだろう。

 

クソデカ地震がやってきた。苦しい〜。またこうやって私は地震をやり過ごしていく。私は毎日をやり過ごして生きている。みなさんは?

『独学大全』、紙で買うか、電子で買うか

『独学大全』を買いたい 

読書猿『独学大全』。今日で発売から1年だそうだ。

 

 

この1年、「独学大全」の文字を見かけないは無かっただろう。インターネット(はてなブックマークTwitter)をしていたら書籍名も著者名も目にするし、本屋に行けば必ず話題書コーナーに平積みしてある。あの、辞書もびっくりなサイズと厚さで。

 

本屋には人並みの頻度で行くけれど、通学に2時間近くかけている自分は、色々な場所の本屋に行くことがある。けれどそのどこでも見かける。

 

この前ワクチンを打つついでに神保町の三省堂書店に行ったら、1階と2階と3階と4階に平積みで置いてあった(たぶん)。めっちゃ積まれてた。プッシュがすごい。

 

直近だと、星海社新書の本を2冊読んでいたら「独学大全」の文字が両方に出てきた。一冊は『ライティングの哲学』で、これは著者の読書猿さんが座談会に出席していた流れで出てきたのでそれはそう。もう一冊は『すべてはノートからはじまる』で、中盤にノートに関する手法のまとめがざざっと網羅されているのだけど、やっぱりここにも出てきた。

 

私のかなり好きなブログ「本しゃぶり」でも何度か記事に使われている(「最初の一歩を踏み出すという汎用的な技術」「好きな戒律をトッピングするプラン」「ヘッドセットでリマインダー音声入力という言霊2.0」「拝啓ハイパーヨーヨー殿、大人を舐めるなよ」)。タイトルのセンスすごいな。

 

そういえば今年は骨しゃぶりさんの影響で買った本が多い。『スイッチ!』とか『欠乏の行動経済学』とか『サーチ・インサイド・ユアセルフ』とか『失敗の科学』とか。ダン・アリエリーのは読んでいないけど、大学の授業の兼ね合いもあって行動経済学の本も少し読んでいたし。そのラインナップでどうして『独学大全』を購入していないのか。

 

そして少し前に「『独学大全』公式副読本」なるものが発売され始め、どうやら今のところこれは電子書籍限定らしい。

 

ここまで買いたくなる要素が溢れかえっている。世界が自分に「買っちゃいなよユー」と囁いている。もし仮に意識高い人と会話したら、「まだ独学大全読まずに独学してるの?」とか言われそうだ。

 

買いたい。実際に読むかどうかは別として、「買う」という儀式を執り行いたい。

 

しかし問題は、紙媒体で買うか、電子書籍で買うか、ということである。

 

俺流・紙と電子の差について

まず、紙の話はともかく、電子書籍について。

  

私にとっての「電子書籍」とは、現状ほぼ間違いなくAmazon Kindleのことである。それ以外のサービスは使っておらず、今は使う気もない。DMMbooksの70%オフキャンペーンのときも、魅力的だなと思いつつも結局何も買わなかった。価格だけを考えれば、振り返ってみるとあそこで100冊ドカ買いするべきだったけど、ちょっと新しいサービスを使う心理的な余裕がなかった。あとKindle以外に電子書籍サービスを増やしたくなかった。この本はこのサービスの本棚で、あの本はあのサービスの本棚で......といちいち意思力を使いたくなかったのだ。完全に先行者利益に乗せられているような気もする。

 

最近インターネットでちょっと話題になっていたけど、オタクのグッズの収納についての記事とかでも、「コレクションじゃなければ漫画は電子書籍にしとけ!」という具体的な解決法で締められていた。それはそうだけれどさ。

 

電子書籍は、セールの時によく買う。kindleのセールは結構魅力的で、(どのサービスもそうだと思うのだけど)良い本が50%オフとかポイント還元とかしてることがよくある。日替わりセールは玉石混合だけれど、5月くらいに『新世紀エヴァンゲリオン』の頃(そして『春エヴァ』公開以前)の庵野監督インタビューや製作陣の座談会がまとまっている本がセールの対象だった。けっこう思いもよらない出会いで、上巻だけがセールだったけど、下巻も(定価で)買った。

 

同じように、読書猿『アイデア大全』と『問題解決大全』もセールのときに買った。この間ちょうどセールだったのだ。

 

 

『アイデア大全』と『問題解決大全』を買いながらも、『独学大全』を買っていないというのは、なんだか気持ち悪さ、あるいはもどかしさがある。例えるならブックオフで上巻・中巻はあるのに下巻だけないとか、ドラクエ1、2をプレイしたのに3をやらないとか。コンプリート欲というか、コンプリートの快楽ってあるでしょ!!と脳内で批判が殺到している。

 

セールまで待つという手もあるが、易き(安き)に甘んじることなく生きていたいから、ふつうに買いたい。わかりやすさばかり求めたくないし。貧乏学生ですが(今もガストで安いメニューを注文して居座ってタイピングをしている)。

 

次に、紙の本を買っていたいという話について。

 

Amazon kindleを使うようになったのは今年のはじめからで、それが自分の読書ペースや読書数をかなり上げたことは間違いない。本を買うことに躊躇がなくなった、と言い換えてもいい。おかげで電子の海の中の「積み本」があるのですが。

 

部屋のスペース取らないし、本はもう電子でいいか、むしろみんななんで電子使わないんだ?みたいなヘンな自意識を拗らせていたが、最近は紙媒体で本を買いたくなっている。

 

この前書いた記事の「電子書籍の貧しさ」というか、紙媒体、物理本の貴重さというか、とにかくそういうものを重要視するようになっている。

 

巨人の肩に乗ってみると(そんな大層な話かはさておき)、千葉雅也さんがちょうど良さそうなツイートをしていた。

 

 

 

この「物質的有限性」が、現在の私にとって、現実的な豊かさに思えて仕方ない。

 

例えばまず、本。紙の本と電子の本は別に対立構造をなしていなくて、相補的に活用していけば良いとは思うけれども、それでも1番の違いは「スペースをとる/とらない」だろう。ここには異論がないように思える。(エンドユーザとしてだけだけど)

 

で、電子書籍の(仮想の)本棚では、入る本が実質無限みたいなものだ。現実空間に占めるその「本」の要素って、データ的に見れば原本とその複製、サーバに記録される購入履歴などのログくらいでしかない。それを「読む」とき、ハードウェアが必要になる。エンドユーザーにとっての「本」が。

 

それは現段階の自分にとってスマホタブレット、パソコンの3つで、このうち1番小さなスマホについて考えてみると、物理的で現実的な本の「サイズ」って、スマホ1台分しかない。そこに実質無限の本が収納されている(ように見える)。

 

一方、紙の本を考えてみると、例えば一般的に小さい本といえば「文庫本」だろうけど、文庫本の時点でスマホよりサイズをとる。現実空間に占める割合が大きい。「大きい」だけでなくて、「分厚い」。場所をどうしてもとる。

 

(文章が下手で申し訳ないし、今書いているところは準記事、アウトライナーの段階では書いてなかった。なのに書き出してしまった。入力してるiPadの充電が40%しかない上に充電器も持ってきておらず、しかし冒頭に"独学大全発売から1年"なんて書いてしまったせいで、今日書き上げることが前提になっている。たぶんそのほうが綺麗だしそうしたい。けど締め切りがあることによって思考が加速されているので、このまま書き切りたい。20時か21時にはインターネットの海に放流したい。するぞ。)

 

そして私は貧乏人で部屋も狭いので(実家暮らしです)、部屋においておける紙の本には限界がある。今は2ヶ月くらい前にある本を段ボール2箱にしまいこんで擬似的にスペースを増やしたが(ガーベジコレクションみたい)、それだって限界がある。

 

だから、電子書籍を使うようになる。現実空間の制約──物質的有限性とも言えるかも──から逃れるために。部屋が狭い。しまえる本には限界がある。そしてしばらくこの狭い部屋から脱出することはなく、引っ越しても自分の収入じゃ大して部屋の大きさは変わらないだろう。

 

そうだ、自分にはスマホがあるじゃないか。この中に本を閉じ込めてしまえばいいのだ。この板切れが内包しうる本は実質無限だ。電子書籍を使おう!部屋のスペースがないしね!スペースをとらずに本を読めるのはいいこと!

 

これって、貧しくないですか。精神性が。魂が。それが現代に、現実的に生きる人間への人生攻略パッケージとして提供されていて、それを受け入れている自分が。

 

金がない。所有しているスペースが小さい。しばらく小さいままだと予測される。本を読みたい。借りるのではなく買って読みたい。フローがひたすらに加速していく現代で、ストックとして本を所有していたい。けど、スペースが小さい。売り払うか。電子書籍にするか。

 

恐ろしい。金銭的な貧しさが、文化の消費方法──末端の消費だけれども──に影響を与えている。電子書籍が(精神的に)貧しいなどというつもりはない。ただ、自分のこのような思い・考えを辿ると、どうしようもなく、貧しいのだと、思うし、考える。

 

その道筋こそが貧しい。金銭的な貧しさからはじまって、精神的な貧しさに行きついている。恐ろしい。グロテスク。おぞましい。貧すれば鈍し、鈍すれば貧する予感がある。くそ。これも親ガチャの文脈で語っていいですか。

 

あと、身体性の問題もある。すべての「動作」や「操作」、「とにかく物理的、連続的、アナログだったもの」がスマホに格納、収納されうる時代である。地図?GoogleMapを開こう。方位磁石?なにそれ時代遅れ。日付と時刻?スマホのロック画面に書いてあるぞ。もう太陽や月や星を利用しなくていい。買い物?スマホAmazon見ればいいじゃん。自粛スキルが足りてないな。対面で会議?それZoomで良くないですか?時代遅れですよ。カメラ?iPhone13ProのCM見てないんすか、映画撮れるんすよ。音楽?カセットテープとか若い子はわかんないか(笑)。おじさんが大学生の頃はね......。それSpotifyとワイヤレスイヤホンでいいですよね。ラジオ?いまはいちいちチャンネル合わせるとかしないし、radikoでいいし。メール?電子じゃないメールがあるんですか? 読書?電子書籍でいいですよね。

 

あー、怖いなー、と思う。身体や生活というものが、この薄い板のデジタルデバイスに集約されていく。俺の動きはどこへ?物理的なものはどこへ?俺の身体は、いま、どこにある?

 

ページをめくる指の動き。本の匂い。表紙や紙の感触。そういうものをまだ失いたくない。少し前まで、自分は仮想を加速するのが良い/善い生活に結びつくと、半ば確信していた。なのに、今更、今になって、現実への回帰にも似て、現実......的な何かに縋りつこうとしている。

 

そういうことで(どういうこと?)物質的有限性が、精神的な価値......高級さ......になっている/いくなあと思うのです。そして、それをどこかに売り払うようなことが、どうにも貧しいように思えて仕方ないのです。

 

どっちにしよう!?

そんなことだらだら語っている場合ではない。もっと直近の問題について考えよう。『独学大全』、紙と電子、どちらで買うか。

 

 紙派の意見

 ・あの「分厚さ」「重さ」を体感したくないか?

 ・読みながら持ち上げて筋トレできるかもね

 ・副読本が電子なんだから、相互参照できるように紙本一択

 ・前段であんなに物質的有限性について書いたなら紙で買えよ

 

 電子派の意見

 ・デカくていいこともあるけど、お前スペースないじゃん。現実見ろ

 ・アイデア大全と問題解決大全が電子なんだから、流れは電子でしょ

 ・重くて読むの疲れるかもしれないし、分厚さに心が折れるかもしれないでしょ

 ・どこでも読めるぞ。紙で買ったら家からあの重さの本を持ち運んで、出先で「そういえば独学大全にはこういう記述があったな.......」を即時に確認できないでしょ。移動性の面ではこっちが勝ってる。

 ・副読本も電子で出てる。これは電子。

 

悩む。どちらにも言い分がある。対立ばかり気にして、うまく判断できない。こういうときは、「今この瞬間にできること」と「何がしたいか」という軸で考えよう。

 

今自分は駅前のガストにいる。ここで買えるもの。俺が買いたいほう。それは........................

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果

   これを

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  こうして

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 こうだ。

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 ついでにこれも!

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 アンサー:電子書籍

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電子で買った。紙の本で買おうとすると、店から持ち帰るのがめんどくさい。Amazonで頼めばいいけど、紙の本の扱いが雑だから嫌だ。他の通販サービスまで頭が回らない。であれば。電子一択。

 

また電子で買ってしまった。とりあえず、タイトルの問題は解決。おしまい。紙の本も買っていきたいのですけれどね。

 

 

 

 

 

 

お金が無限に近いだけあったなら、現実の空間を自分のものにして、紙の本を買いながら電子書籍も買えるのです。貧しいのは罪であり病なのです。(それは自己責任論みたくなっていませんか)

 

私は、豊かさとは、まだ程遠いのです。本当の豊かさは(愛は)どこにある?

 

 読むぞ、独学大全。そのうちに。

後悔しないように、なんて

出来るはずないのに。

 

寝よう寝ようと思って、窓際でSpotifyのプレイリスト「Sleep」を流しながら寝転んで、ただ深い呼吸をしていた。

 

オートで動き回る自分の考えを制御下に置くことはいまだできず、呼吸だけに集中しようとしても、思考は脇へ脇へと逸れていく。止められない。

 

いつしかそいつは高校時代の記憶にアクセスした。高校2年生、夏の大会、その結果発表。個人入賞の発表を待つ時間。個人成績1位〜10位の名前が呼ばれる、その瞬間。なんで今になってそれを掘り返すんだ。

 

自分の高校の順位はいくつだったか、ふと疑問に思って、意識的に考えても思い出せない。思い出せないストレスで起き上がる。何位だったか。

 

スマホを起動して、確かめた。はあ、そういえばランキング外だ。

 

あの、競技に挑んでいる瞬間のことを思い返す。自分の名前や学校名が呼ばれるのを待つ瞬間のことを思い出す。綺麗だ。輝いている。キラキラしている。どうしようもなく、瞬間の輝きがある。青春の瞬きがある。

 

争う、競う楽しさって、確かにあった。でもそれは、現在から事後的に思っているだけであって、過去のその瞬間にはそんなこと考えていなかった。

 

どうしようもない話なのだ。高校最終学年で感染症が流行るなんて、予想できる話でもないし、予想できたとて、自分には何もできない。しょうがないじゃないか。どうしようもないじゃないか。大会が開かれることはないなんて、別に、当たり前で、ニューノーマルな話なんだよ。運命みたいなものだと思え。

 

しょうがないのだ。高2で、「来年こそは」とか、「来年のための準備みたいなもんです」とか顧問に言っても、その来年に大会が開かれることはなく。高2のあの瞬間に最大限のことをすれば良かったと悔いても、遅すぎる。どうしようもない。しょうがない。しょうもない。

 

「後悔しないように」と人は言う。それを聞くたびに思うのだ。「出来るわけないだろ」、と。未来から振り返れば、過去の自分の視野がどうしようもなく狭いことに気づく。後悔という言葉は、こっちにしておけば、とか、未来から振り返ることができることが前提だ。どうしたって、人生は後悔するようになっている。そういう設計をされている。

 

瞬間を必死に生きたって、振り返ってみれば別の道が見えてきて、努力が足りなかったとか、こうすればよかったとか思ってしまう。後悔しないように、なんて、(そんなことできないけれど)という前置きがあったほうが、きっと誠実だ。

 

どうすれば良かったのだろう。いや、どうしようもないと散々結論を出したはずだ。なのにまた、なのにまだ、何かあったはずだ、何かできたはずだと思うのを止められない。そんなことないはずなのに、「それがあれば自分は善い人生を歩めたはずだ」「きちんと高校を<卒業>できたはずだ」「青春の呪いから解放されるはずだ」と思うのをやめられない。そんなこと、絶対に、あるはずないのに。

 

別に、これだって陳腐な話なのだ。「大会が/舞台が/できるはずのことができなかったんです」なんて、みんな思っていることだ。そこに、「こっちの方がかわいそうだ」とか「こっちのほうが失った価値が大きい」とか、そういう比較の話を持ち出すべきではなく、人には人の地獄があるだけ。比較するべき話ではない。

 

ただそれでも、自分はまだ囚われている。なんでこんなことになってしまったんだろう。

 

もっとちゃんとしておけばよかった。もっとしっかりしておけばよかった。やれることを、やれるだけすべきだったのだ。止められない。後悔しないように人生はできていない。少なくとも自分の人生は。

 

どうしてだろう、あの自分の名を呼ばれるまでの時間と、自分の名が呼ばれた瞬間の、心の動き方......安息でも充足でも安堵でも、安心でも退廃でも諦めでもなく、何か、「救われたような」感覚が抜けきらない。まだ自分の魂にこびりついている。そんなものをくっつけていても、苦しくなるだけなのに。

 

こうやって「可哀想ぶる」「被害者ぶる」ことだってやめた方がいい。そんなもの忘れてしまえ。過去なんて燃やしてしまえ。そんなガラクタ、燃やし尽くしてしまえばいい。あと5年だとしても、そんなことは忘れて、被害者意識より加害者意識を、過去より未来を、すべてを食い散らかして生きていった方がいい。そんなくだらないものに、くだらない感傷に付き合っている暇はない。何か、自分の翼のようなものがそれで折られたような気がしていても、忘れてしまえばいい。

 

でも、でも、でも、まだ、「でも」って言いたい。「高校最後の大会無くなっちゃったんすよ」「でも、」って言いたい。その次の一文を言わせてくれ。どうしたらいいんだろう。僕にできることはまだあるの?

 

今こそ塔を降りるとき. なのに、まだ降りきれない。振り払えない呪いがまだ追いかけてきている。ちゃんと卒業するのに失敗した。

 

今日も青春の代償行為に勤しむ

 

青春病 - song by Fujii Kaze | Spotify