nakoは生きものだ

消費者、ティーンエイジの残弾、日記

帰りの電車に厚切りジェイソンの本の広告が出てた/体調が悪すぎる

タイトルは適当に目の前にあった状況からつけた。『ジェイソン流お金の増やし方』というらしい。読んではないけどおそらく投資信託で分散しよう、みたいな話だと思う。FRBの利上げやウクライナ侵攻によってアメリカ株全体が下がったときに、なんかそういうWeb記事を読んだ覚えがある。ジェイソンにクレーム大量、みたいな。確かFIREについても語っていた。結構ケチな消費をしていたような記憶がある。全部曖昧ですわ。元ソースを示す必要性がここであるだろうか?うーん.......。いえ、そういう正しさに基づいてこの文章を書いてないので、ソースを出さなくても問題はないはず。とはいえはてなブックマークか何かで検索すれば記事自体は1分足らずでアクセスできるはずだ。そこからリンクを拾って記事に挿入すればいい。私はその手間を省くのか?と考えると、難しくなってくる。そういう安っぽい人間なのかと問われてる気がしてしまう。自意識以外の何物でもありません。気になったから調べよう。

 

厚切りジェイソン、いつの間にか“FIRE”を達成していた「私ほどケチな人を知りません」 | 日刊SPA!

厚切りジェイソンさん「米国ETFの積み立てでFIRE達成」: 日本経済新聞

 

たぶんこの2本だと思う。まあ、別に厚切りジェイソンの投資法について書きたいわけでもなく、単に書き初めに悩んだから目の前にあったものをきっかけにしただけだ。

 

ええと、明日も明後日も期末試験(論述など)があるのに文章を書くのは逃避でしかないわけだが、いくつかまとまったトピックを書きたいので、そのメモ書きをしてみる。

 

・「文化資本の継承はお済みですか?」

 

・疲れすぎている自分の体

 ・認知能力が著しく低くなっている

 ・何のタスクもうまく実行できない

 ・集中力が無くなった など

 

・主体性がない

 ・人生や自分へのコントロール感が欠けている

  ・100%自分をコントロールしても楽しくないし、偶然性に身を開けという主張もわかるが、それはそれとして30%とか50%とか、21世紀の「大人」として必要なコントロール率はあるだろうし、それを現に(常に)求められている

 

今日は明日の試験のために資料を読み込むのをやめて、・疲れてすぎている私の体について書いてみる。

 

体が疲れすぎている。体調が悪くない日がほとんどない。1日もないと言っても良い。

 

喫緊の不調は主に鼻だ。その前は耳だった。というか6月頭にコロナではない発熱が3日?とか続いて、そこからの不調が特にすごい。今は鼻から鼻水の素?みたいな、膿みたいな黄色い粘性を持った液体が垂れてきて、鼻の出口付近で固まって、鼻くそみたいなものになる......のが続いている。

 

朝起きるとそれによって鼻の通りが悪くなっているのを実感し、ティッシュで鼻をえぐり、通りをよくするところから1日がはじまる。あとはエアコンのせいか寝起きの喉がひどい調子で、洗面台に向かって何度も痰?喉の奥のつまり?を吐き出さないと違和感が凄い。いえ、まずは耳鼻科に行くべきですね。......苦手なんだよなー、病院。予約も待合も診断も会計も薬受け取るのも全部苦手。訳わかんないルールが支配している空間というだけでなく、というかそれが全てかも、ルールからすぐ外れてミスをするのが嫌なんだ。なんもわからん。

 

あとは......朝うまく起きられないとかか。欠乏を頭に抱えて起きたり、家を出る15分前にやっと起きたり(アラームを止めて二度寝する)。たぶん睡眠の質が悪いと思う。量は取れている。というか質が悪すぎて量取らないとダメなんだと思う。主に呼吸だろうか。

 

全症状を貫くのは骨盤や背骨の歪みからくる不調や、歪みからくる臓器の圧迫なのだけど......これも整体に行くべきですね!

 

あとは汗についても書いていきたい。家から駅まで歩くだけで汗だく......は例年通りの夏としておいておくとして、大学にいる時や大学に電車で近づくときなどに、涼しいにもかかわらず汗が噴き出る時がある。5-10分で収まりはするが......汗が出ずとも心拍数が明らかにおかしいときがあって、これは大学にうまく適応できていないという認識でよろしいでしょうか。自宅ではほとんどならないのですが。

 

他で一番きついのは頭痛だ。雨の日はだいたいひどい頭痛で、ゲリラ豪雨もそうだし、電車で東京に近づいて雨雲にぶち当たると電車+雨頭痛で本当にどぎつい。頭かち割られる。今日は頭痛薬を切らしていて本当に困った。脳天にドリル入れられてる感じ。

 

雨の頭痛に敏感になったのもたぶん2019年とか2020年からで、それを除いても元から微弱な頭痛が常にしています。これは8年ほど前から(から?)ある離人感に関係あるような気がしています。

 

と言ってもここ2年くらいは、もう離人感があるのかどうかわからなくなってしまいました。現実に現実感を感じるようになったという方向ではないのは確かで、もう何が何だかわからなくなった、のほうが確かな気がします。これはコロナ禍のせいでもありそうです。離人感がずっと続いたらもう慣れてしまって、過去煌めいていた現実というものがずいぶん遠くになって思い出せないのかもしれません。知りませんけど。

 

ああと、食欲は安定しています。食べる量は少ないほう(これも胃を背骨が圧迫したから)だけど、あとお通じもそんなに良くないし(これも猫背のせいですね!)、しばしば下痢になります。大体はファミレスでドリンクバーをバカスカ飲んだりコーヒーがぶ飲みしたりするのが原因なので、下痢はそんなに気にしなくてもよさそう。

 

あとはなんだ、集中力の低下と認知能力の低下、未来の予定を一切考えられないとか、文字が読めないとか耳が悪くなったとか......それぞれ加齢では済まされないレベルの......がある。

 

要はぜーんぶダメなわけです。6月の頭にかかった発熱外来で、薬を飲んでも熱が落ち着かなければ血液検査したほうが良いと言われたけど、血液検査したほうがよかったな、タイミングを逸した感があるけど。

 

あー、今は頭痛がしますね。雨雲はない、頭痛ーるはやや注意、そして今は電車に座ってスマホで文字を打っているので、常時頭痛+やや気圧+電車+頭の使いすぎというところでしょうか。ぐぎぎぎぎ......だから頭痛薬ないんだってば。

 

頭痛薬に頼り始めると毎日飲みかねないので、あんまり飲まずにやっていきたいところです。あれを1週間毎日飲んでいたような時期が高校生の頃にあって、当時は毎週資格試験があるような月で、飲むと集中できるから飲んでいたように思います。普通に乱用だった。

 

あと、鼻血。季節の変わり目には鼻血がたくさん出ます。古傷が疼くんだろうか。結構5分もすれば収まるのだけど、なにぶん1週間に4回くらい、軽い貧血になるくらいの鼻血を出してしまう。これは6月を境にしばらく収まっているので、季節性のものとして捉えて良さそう。

 

このくらいですかね、体の不調は......。あとは6月の発熱以降、基礎体温、じゃなくて平熱が0.5度くらい上がった気がする。気のせいだとは思うけど、僕は毎シーズン、35度台後半か、行っても36.3とかだったけど、最近は36.7とか平気で出る。まあたぶん気のせいですね。

 

あとはスマホ依存、SNS依存、ポルノ依存の問題もある。いや、ここで問題の原因をまとめてみよう。

 

①猫背や骨盤の歪み

②自律神経とか

③依存(スマホSNS、ポルノ)

④その他(気圧、季節)

 

うーん。だとして取り掛かるべきはまあ病院と整体に行くことと、依存をやめることですね。うわー、まず無理だ。あとは自律神経を徹底的に整えるとか。うわー。無理無理、けど現状の生活のほうが無理......。もう何もしたくなくなってきた(いつも通り)。

 

あといくつか不調を思い出した、週末に風呂に入らないことと、......ことと?タスクを期限通りにこなせないことと、まあ、それば心理的な面も大きいから(とはいえ私の体の問題だが)置いておこう。

 

とりあえずどうしますかね......未来のことをまともに考えられないので、とりあえずテストが終わるまで後回しにしますかね......

 

隠れ貧血の可能性もある

 

ピ

『RE:cycle of PENGUINDRUM 後編 僕は君を愛してる』を観たので、書くべきことを書こうと思う。

 

いまだに途中の実写(VFX)シーンをどう解釈すればいいかわからないが、とにかく書きたいのは、最終盤の新規カットのシーンだ。

 

TVシリーズ第24話の中盤までの内容(ピングドラムの受け渡し)を読んだのちに、子どもの晶馬と冠葉がした行動について書こうと思う。

 

相変わらず眞悧は「君たちは何者にもなれない」とか「絶望するだけ」とか「何も残せない」とか「この世界をやり直そう」とか言うのだけど、ここで高倉兄弟は前半から繰り返し言われてきた「なすべきこと」をすることになる。つまり、運命の乗り換え後の世界に陽毬のぬいぐるみ(と手紙)を送ることだ。

 

本を読み終えて、一度物語として距離を取ることで自らの根拠(=何者であるか)を取り戻し、その上で「今やるべきこと」をなす展開は良かったと思う。単純化すれば、一度過去全体を距離をとって捉え、その上で今現在なすべきことをすることで、社会的な要請とは別に「何者かになれる」ことが示されていて。

 

乗り換え後の世界にぬいぐるみと手紙を送ることによって、確かに彼らが残したものがあった、というのがよかった。眞悧が言う「君たちは何も残せない」の反論になっていて。とにかくやるべきことをやれば(社会的な要請とは全く異なる次元で)何者かになれる、のかもしれない。

 

【予告篇】輪るピングドラム 劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM 後編【7月22日(金)公開】 - YouTube

生活と人生

生きることを「生活」と「人生」に二分することがそもそもナンセンスだと言われたら、はい、本当にその通りです、すみませんと謝るしかない。すみません。でもそのような気がしてしまうのは仕方がないと思う。「ハレ」と「ケ」みたいな二分法なのだから。

 

生活を説明するのは簡単で、起きて寝ること、皿洗いから洗濯や食事や掃除、その他家事一般からなることや、お金の振り込みや書類の提出や課題をこなしたり働いたりして日々をなんとか過ごしていくことなのでしょう。

 

一方人生の説明は難しそうだ。「生活をする」は普通の響きだろうけど、「人生をする」(あるいは「人生をやる」)のは、少し奇妙な響きがする。

 

でも日々を生きていて(生きること全体で)、ああ自分は今間違いなく人生をしている、と思う瞬間がわずかながらにあるわけで、そういう時間のことを人生と呼んでいきたい。あるいは、誰かを見て「この人は人生をしている」と勝手ながらに思うことさえある。(特にインスタグラムを見ているとそんな気がしてしまいますね)

 

そして私は人生をしたい。具体的な説明になっていませんね。無限に濃厚な時間を浴びたい。ただ漫然と時間に揉まれていきるのではなく(その中で生きていくのも十分に楽しいけれど)、自ら人生を差し出したりして、生涯の全時間に、過去も未来も変えてしまうような瞬間を生きてみたい。そうは思いませんか?

 

もちろん人生だけを追い求めてはいけない。確かな生活に根差しながら、しっかりと地に足をつけた上で、ときどき翼を生やしたり航空機に乗って自分を空に投げてみたり、たまに裸一貫自分の身体だけで海に飛び込んでみたり、なんなら宇宙船に乗って別の星に行ってみること。生活をやりながら人生をしたい、とはそういうことなのではないかと思う。知りませんけど。書いてみたら、そんなに難しいことでもないんじゃないかと、酷い勘違いをしてしまった。......どうですかね。

 

まずは当座の生活をやる。というわけで、私は今から必修の英語の授業に出席するのです。あ、小テストあるの忘れてた。まあいいでしょう。

早く楽になりたい

この頃、「早く楽になりたい」という思いに駆られることがある。具体的なことはほとんどわからないまま、楽になりたい、楽にならなければならない、という強迫観念に駆られる。

 

楽になりたい、の内実はあまりわからない。でもそう思ってしまうのだ。苦しみから解放されたい、で合っているようには思えない。ただ純粋に、楽になりたいのだと思う。

 

死ぬことが楽になることに直結するとは思わないから、たぶん死にたいわけではないのだ。死よりもっと楽になりたい。ならなければならない。

 

この強迫観念にどう対処すればいいのか、いまだにわからない。点滴を打たれれば楽になるだろうか、とは思うけど。とりあえず大学の学生支援室に行ってみるべきか。しかし相談するにしてもどのように自分を語ればいいのか。「早く楽になりたいんです」などと語りだしても、ははあ、としか思われないし、向こうも困るだろう。予約だけしてみるか。

 

強迫観念を根本から消すのは難しいと思うから、しばらくは、一時的な解消を目的にしたい。

 

今思いついたのは、とにかく後回しにしていること、特に課題群をすぐさま処理し、キープしているタスクを無くすことだ。そういう、「やらなければいけない」のに後回しにしていることを、さっさと崩していく。余裕を作る。余裕になる。楽になる。楽になってやる。楽になろうとすることが楽になることかもしれない。現状に甘え続け、自己を欺瞞することをやめること。

 

数週間そのままにしてきた文字起こしのタスクを今からやる。全部終わるまで寝ない。こういうときは言い換えましょう、全部終わったら寝る。

 

まず学生支援室の予約をする。予約、の申し込みをした。一週間以内に電話がかかってきて、それから色々決めるらしい。電話か。こういうのは電話じゃないほうが行きやすいように思います。

 

よし、いよいよ文字起こしのあれを綺麗にするぞ。楽になる。楽になるべく、楽になる方法をとります。楽になって、ようやく幸福に必要な土台が安定するだろうという直感がある。何よりもまず楽になる。もっと言えば、この表現が正しいかはわからないが、回復する。回復してからはじめて、色々始められる。そのはずだ。

 

追記 結局家を出るまで時刻までに文字起こしが終わらなかった、けど時間単位で言うと30分/90分は終わったとは思う。ひとつ目に取り組んだ文字起こしのデータが、音声入力に一度かけたのにも関わらず全然形になっていなくて、実質一から文字起こしを始めることになっていた。だらだらTwitterを見ながら作業を進めた結果、15分の文字起こしに3時間かかった。直接作業時間で言えば2時間くらいだろうか。

 

もうひとつのデータは一度音声入力にかけたのがほとんど完璧(理想的)(もちろん手直しする箇所はあるけど)だったので、これも録音時間は17分程度だったのだが、小一時間程度で終わった。

 

なぜこのような差がついたのかというと、スマホのマイク/スピーカー性能が、ここ数週間の度重なる落下によって、低下してしまっている、というのが一つありそう。あるいはiPhoneでボイスメモを流しつつiPadに音声入力する手順、特にその二つの位置関係が悪かったとか、もありそう。スマホ買い換えるべきだしカバーをつけるべきだしまず落とすなと言いたい。こういうところも見直して楽にならなきゃ。

into the 夏

関東甲信地方が梅雨明けしたそうだ。でも肌感覚でわかるところがある、こんな猛暑で梅雨はないだろう。今日は全休で昼に起きたのだが、テレビをつけると外の気温は35度あるらしかった。何をする気も起きませんね、6月の35度は。

 

寝るときも冷房を消していたから、汗が凄かった。じっとりした汗をかいていた。扇風機を自分の方に向けて、なんどか深呼吸をして眠れた。10時間眠れた。この3日間の睡眠時間が12時間、14時間、10時間で推移している。何か疲れるようなことをしなくても、日々このくらい寝ている。でも長時間睡眠で調子が良くなるとかではない。

 

しばらくは夏の暑さに慣れる期間にしたい、涼しい室内に閉じこもるのもいいが、それはなんだか体力を徐々に削るように思うので、少しは外に出て暑さに慣れていきたい。

 

ということでここからファミレスまで自転車で出かけたい。暑すぎて無理だった。近くのコンビニまで歩くのが精一杯。コンビニのコーヒーとチューイングガムとアイス(サクレ)を買った。

 

調子が良い日が1日もない。数年前はこんな感じじゃなかったのに、いつからこのような調子の悪さが全身を支配するようになったのだろう。

夏に向けて

梅雨だ。梅雨なのに最高気温が30度近いのはおかしいと思う。と言ってもそういうおかしいことがこれからどんどん正しくなっていって、スタンダードとして固定化されていくことを思うと、わざわざおかしいと言うこともバカバカしくなる。口を開くのが億劫だ。文字を書くのも。

 

夏がやってくるのだ。梅雨が明け、人を殺すような猛暑がやってくる。わくわくタイムですね。きっと今年の夏は特段外出自粛が叫ばれないだろうから、誰にとっても良い夏になるはずだろう。楽観的な予想とならなければ良いが。

 

まあそんなことはどうでもいいのだ。

 

この夏、いや冬も、いくら電力不足で節電が叫ばれようと、もし電力不足で人が死のうと、たぶん自分は知らない顔で日々を過ごすと思う。罪悪感もないだろう。これが人殺しの顔をするということなのだろうか。

 

そういうことにひどく疲れてしまったのだった。そういうこととはどういうことか。自分でも詳しくわからない。自粛をめぐるゲームにも疲れ果てたし、インターネットで日々行われる対立にも、単なる言及の発生にも。詳しいことは本当にわからないのだが、疲れた。

 

これからは節電をめぐるゲームが話題になる。どうして節電しないのですか、とか、完全な善意で節電をする人々と、一般的に見れば自分勝手な行動が、何よりも最適だと認識して動く人々と。くだらない言い争い、ハッシュタグを使った一体感の顕示、節電方法をプッシュするメディア、それからそれから。あーもう疲れた。

 

勝手に自分で未来を考えて、先取りしてわかったようなフリをするのが癖になっている。早くやめるべきだと思う。

 

言いたかったのは(あるいは言ってしまったのは)ふたつだ。ひとつ、私はひどく疲れてしまった。そしてそれは現在進行形である。ふたつ、私は人殺しの顔をするだろう。本意か不本意かはともかく。

君は永遠に

ブックオフで270円で売っていた『君は永遠にそいつらより若い』という小説が......刺さった......良かった?いいえ、この本と出会えたことに対して万物に感謝したくなったので、文章を書いています。ネタバレがあります。

 

これだ、と思った文章を引用した時点で文字数が1500字あり、本という媒体にはたくさん文字が入っていて、何時間かければ一冊の本になるだけの分量になるのだろう、と思う。

 

少し引用しすぎたなと思って、5,6くらいの文書を削った。現実的に文章を書き終えるにあたって、サイズが大きすぎても良くない。自分に取り扱えそうなくらいに落とし込まないとやっていけないのだ。

 

物語の中に自分を見出してしまう、というのは、さらにそれを自らが語っていくという形式は、とても痛々しい自己開示で、ともすればそれが原因で他人に嫌われることもある。作品についての話を自分の側に寄せて書く、という行為は、「勝手に自分語りしている」のと同義になってしまうからだ。でもまあいいか。そういう感じにしか書けないのだし。

 

"でも結局、そんな自分を責める気にもならない。選択のしようもなく、わたしはそうでしか在れなかったことがよくわかっているから。だいたい、わたしと同じようなことをしていても、器用な子なら持つべきものは持ってやることはやれているから"

"なんにしろ、わたしが並外れて不器用なのは、わたしの趣味ではなくわたしの魂のせいだ。"

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』P19

 

序盤も序盤にこの文章を読んでしまって、ああ、これはもしかしたら自分のための本かもしれない、という盛大な勘違いをしてしまった。自分は自分でしかない──というフレーズは大抵ポジティブな意味で使われると思うが、この場合ではただ自分は自分でしかなく、別に変更できるものでもないのだ、そして不器用なのは自分の外側にあるもの(趣味)ではなく、魂のせいなのだ、と。

 

この文章を一度読んで、自分もそうなのだと、自分もそうでしかないのだと、文章の前に立ち、告白するような気持ちになった。自分が不器用なのは自らの魂のせいなのです。他の何でもなく、神経とか遺伝とか環境とか、ましてや趣味なんかでもなく、ただひとつ、私の魂のせいなのです。本当にそうなのだ。おお神よ。ジーザス。

 

 

 

 

"しかし十九歳の時に、......(中略)人生は妥協が大切なのだ、と急速に軟化し、まず容姿が軟化し、男の趣味も軟化し、人間性も軟化していった。が、さらに今になって考えてみると、転換以前と以後の生活に何ら大きな変化が見られないことが判明し、所詮わたしはわたしなのだとがっくりきて、そしてすぐにどうでもよくなった。"

P97

 

そのとき自分が変わったような気がするが、後々になって、別にそんなこともなかったと気づく。所詮わたしはわたしなのだとがっくりきて......「そしてすぐにどうでもよくなった。」そういう執着がどうでもいい、まで突入してしまう文章のスピードが好きだ。

 

結局近眼的な見方で何かが好転したように(または悪化したように)見えても、時間全体を冷静に振り返ってみれば、大して変わったように見えないものなのだろう。気分の上下も、近眼的には(その時間を単線的に生きる自分にとっては)とてもシリアスな問題だけれど、たいていの原因は天気と気圧と季節とイレギュラーなイベントごとなのであって、長期的に見ればいつもそこそこに悪い気分が続いているだけなのだろう。そう思うと、少しだけ気が楽になる。

 

 

"どうして今になって、他の人から口づてにきくような破目になるのだ、と自分を責めた。もっと早く、もう一度あの人に会いたいんだ、会わせてくれと言い張ればよかった、そんなことをわたしのような人間が言うなんておこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば。"

P192

 

......おこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば。これはコロナ禍にあって特に主体的に行動しなかった自分......いえ、これも欺瞞です。自分の半生全体に対して言えることだ。色々なことに「それは傲慢だ」とか、「おこがましいとは思わんかね」と常々思っていて、しかし(だからこそ)自らからは何もしない。主体性の欠如。

 

「自分を欺瞞している暇があれば」という金言を毎日呟きつつ生きていきたい。そのように自分を欺瞞している暇があれば......。「コロナ禍ですからね笑」そのように自分を欺瞞している暇があれば......。自分が何かすることがおこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば......。

 

 

"わたしは全力で首を振り、自分でもなんで首を振っているのかわからなくなるぐらい振った後に、もういいよ、という曖昧なひとことだけが口をついた。そしてすぐにそんな自分を恥じた。より正確に言うと、自分を恥じることに逃げ込んだ。"

P208

 

「より正確に言うと」「自分を恥じることに逃げ込んだ。」

自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。......

 

映画版も観たのですが(劇場で)、舞台が京都から東京に変更されていることと、時代が2000年代から2019年に変更されていて、スマホSNSが平気な顔をして出てくることに耐えきれなかった。自分はスマホSNSが嫌いなのだと明らかになっただけ、収穫かなと思う。小説ではガラケーじゃないといけない必然性が、そこにあったはずなのに。iPhoneやLINEの通知音が、どれだけチープに映るのか、ちゃんと製作陣は考えたのだろうか。きっと考えたのだろう、そのうえで舞台を現代の東京にしたのだろう。ただどうしても合わなかった。

 

原作を読まずに映画単体で見たら評価は高かっただろうけれど、原作を2022年に読んでから映画を観る、という流れにおいては、映画は心底最悪な印象だった。涙が出た。ニンテンドースイッチぷよぷよをしているイナギさんに。絶望だった。そういうものなのだろうか。いや、そういうものなのだろう。