nakoは生きものだ

消費者、日記

1/16に書いたフリーライティング

  • フリーライティング 1/16
    • Workflowyで書いてみる。おおよそは私について。残りは小さな世界について。
    • 受験から1年経った。不調......あるいはダメさは去年から継続しているし、ダメさは回復せず、よりダメになった。ダメな自分を引きずるように毎日を生きている。
    • 冬だからダメなんだ、低気圧だからダメなんだ、睡眠が取れていないからダメなんだ、食事が、運動が。通年で自分と過ごしていたら、それらはすべて誤りだったと気づく。もっと根本的なことがダメなのだ。
    • 能力、所属、アイデンティティ、(自己あるいは他者からの)承認、どれもが欠けている。私に満ちているものがあるのですか。
    • 私に足りないものを書いてみせましょう。他人への想像力、すなわち思いやり。人生への当事者意識。生活能力。学習能力。表情筋。コミュニケーション。人間関係を維持すること。見る能力。セロトニン。呼吸。その他色々。
    • 能力が無さすぎる。何も出来そうにない。あるものがない。時代と環境とに恵まれているのに。すみません。私はあなたに何も与えられないのに。
    • そう、他者に与えられない。贈与やギバーの話と繋がってくる。自分から与えなければ与えられない、そういう原則を無視している。
    • 私に満ちているものなんて、肥大化した異常な自意識くらいしかない。これを使って何をしろと。
    • 「わたし・ずっとあなたを・見てた」から始まる「Fly Me to the star」が頭で流れている。そこだけの音が。どうしてそこだけが流れるのだろう。
    • 現代の「歌詞」へのアクセスについて考えたことがある。昔、特にインターネット以前では、歌詞は曲から聞き取るか、歌詞カードを読むかしかなかったはずだ。(ここではテレビは除くものとする。)
    • しかし今では、歌詞へのアクセスは、YouTubeでいえば例えばコメント、概要欄、MV中に書かれるもの、音楽サブスクであれば歌詞の表示があるし、究極的にはWebで調べればたいていの歌詞にアクセスできる。だから今では歌詞へのアクセスは電子的で、インターネット的で、歌詞カードにアクセスすることなんてない......。多分自分は「歌詞とのコミュニケーション」の話をしようとしている。だからなにって、なんでもないけど。「だからなに?」ってなんなんだ。「だからなに?」ってだからなに。「だから、なんでもない」でもいいだろう。
    • 使っているSurface Proのキーボードが光りだした。暗いからだろうか。今までこんなことなかったのに、と書いたところで強制ブルスク再起動がかかった。どうしてだろう。薄暗い空間に伝わる、キーボード(裏)の光。気のせいかキーボードの打ちやすさも変わった。
    • 枠組みが与えられたら枠組みを破壊したい。これって逆張りですか。テストで0点取るならマイナス点取りたい。これって自意識ですか。私ってどうしたらいいですか、
    • 書きたいものがあったはずなのに、書けない。書けそうにない。どうしてこういうことが起きるのだろう。すべてのフィルターを取っ払って文字を打つ機械になるか。
    • 指が動かない。脳も動かない。画面の前で何もできずにいる時間が増えただけだ。ノイズ、そう、ノイズ、ノイズがかった脳のまま生きているのです。音という意味では全くなくて、もや、みたいなものが。リソースが常にそれに取られているような。疲れ......もしかしたら疲れの正体はそれかもしれない。いや、脳の疲れについては関連がある。身体の疲れについてはわからない。
    • もや、だとブレインフォグが繋がるだろうか。あれの後遺症でよく言及される。わからん。「頭 もや」で検索したらブレインフォグとうつ病が出てきた。またうつ病だ。最近頻繁にうつ病というワードに遭遇する。いい加減心療内科に行った方がいいんだろうか。
    • 文章がおかしい気がしてきた。人に「自分はダメなんです」なんて言うことじゃない。うつについて何か言うのもやめたほうがいい。かまってほしいみたいに思われそう。うっすい考察なんてするもんじゃない。
    • 何も書くべきじゃない。

20220218

書きたかったものがいくつかある。より正確に言えば、書き上げたかったものが。

 

劇場版スタァライトを観て感じたこと、「月ノ美兎は箱の中」へ行ったこと、最近で言えば、劇場版スタァライトのオーケストラコンサートに行ったこと。書きたいものを書こうとして(実際にはフリック入力やキーボード入力で)、1000字は書いて、下書きをそのままにして、手をつけられずに時間が過ぎる。書き上げることができない。

 

今だってそう。ここまで書いて、もう書きたくなくなっている。「書いてみたい、一文を決めてみる、もう無理だ。」のループから抜け出せない。

 

つまり(何もつまりではない)、必要なのは(何も必要ではない)、書けない自分を引き受け──引き受け続けることである

 

「書かずに書く」すら実践の(あるいは練習の)域に達せないのならば、「書けずに書く」までハードルを下げに下げ、なんとかやっていくしかない。私は文章が書けません、普通の文章も書けません、この文章も可読性が低いことでしょう。わかっています、つらいです、しかし書いています──という風に。 

 

「まだまだここからなのだ」と未来へ無限の期待をするのは、ある種の人々の、とある時間にしか存在し得ない心の向き方だ。私はもう、その無限の期待には乗れそうにもない。

 

「もうダメですわ」と現在を諦め、過去に縋るのが、今一番自分にフィットしている。......そんな中でも、やりたいことや、やるべきことが(本来)あった......はずである。

 

だから、つまり、そうではなくて、ええと、私は、回復して、書きたいものを書き上げられるように......なりたいと、思います。自己実現と反自己実現を往復しながら、その運動を投げやりにせずに、大事にしていたいと......思うようになりたいと......思うのです。