nakoは生きものだ

消費者、日記

生活と人生

生きることを「生活」と「人生」に二分することがそもそもナンセンスだと言われたら、はい、本当にその通りです、すみませんと謝るしかない。すみません。でもそのような気がしてしまうのは仕方がないと思う。「ハレ」と「ケ」みたいな二分法なのだから。

 

生活を説明するのは簡単で、起きて寝ること、皿洗いから洗濯や食事や掃除、その他家事一般からなることや、お金の振り込みや書類の提出や課題をこなしたり働いたりして日々をなんとか過ごしていくことなのでしょう。

 

一方人生の説明は難しそうだ。「生活をする」は普通の響きだろうけど、「人生をする」(あるいは「人生をやる」)のは、少し奇妙な響きがする。

 

でも日々を生きていて(生きること全体で)、ああ自分は今間違いなく人生をしている、と思う瞬間がわずかながらにあるわけで、そういう時間のことを人生と呼んでいきたい。あるいは、誰かを見て「この人は人生をしている」と勝手ながらに思うことさえある。(特にインスタグラムを見ているとそんな気がしてしまいますね)

 

そして私は人生をしたい。具体的な説明になっていませんね。無限に濃厚な時間を浴びたい。ただ漫然と時間に揉まれていきるのではなく(その中で生きていくのも十分に楽しいけれど)、自ら人生を差し出したりして、生涯の全時間に、過去も未来も変えてしまうような瞬間を生きてみたい。そうは思いませんか?

 

もちろん人生だけを追い求めてはいけない。確かな生活に根差しながら、しっかりと地に足をつけた上で、ときどき翼を生やしたり航空機に乗って自分を空に投げてみたり、たまに裸一貫自分の身体だけで海に飛び込んでみたり、なんなら宇宙船に乗って別の星に行ってみること。生活をやりながら人生をしたい、とはそういうことなのではないかと思う。知りませんけど。書いてみたら、そんなに難しいことでもないんじゃないかと、酷い勘違いをしてしまった。......どうですかね。

 

まずは当座の生活をやる。というわけで、私は今から必修の英語の授業に出席するのです。あ、小テストあるの忘れてた。まあいいでしょう。

早く楽になりたい

この頃、「早く楽になりたい」という思いに駆られることがある。具体的なことはほとんどわからないまま、楽になりたい、楽にならなければならない、という強迫観念に駆られる。

 

楽になりたい、の内実はあまりわからない。でもそう思ってしまうのだ。苦しみから解放されたい、で合っているようには思えない。ただ純粋に、楽になりたいのだと思う。

 

死ぬことが楽になることに直結するとは思わないから、たぶん死にたいわけではないのだ。死よりもっと楽になりたい。ならなければならない。

 

この強迫観念にどう対処すればいいのか、いまだにわからない。点滴を打たれれば楽になるだろうか、とは思うけど。とりあえず大学の学生支援室に行ってみるべきか。しかし相談するにしてもどのように自分を語ればいいのか。「早く楽になりたいんです」などと語りだしても、ははあ、としか思われないし、向こうも困るだろう。予約だけしてみるか。

 

強迫観念を根本から消すのは難しいと思うから、しばらくは、一時的な解消を目的にしたい。

 

今思いついたのは、とにかく後回しにしていること、特に課題群をすぐさま処理し、キープしているタスクを無くすことだ。そういう、「やらなければいけない」のに後回しにしていることを、さっさと崩していく。余裕を作る。余裕になる。楽になる。楽になってやる。楽になろうとすることが楽になることかもしれない。現状に甘え続け、自己を欺瞞することをやめること。

 

数週間そのままにしてきた文字起こしのタスクを今からやる。全部終わるまで寝ない。こういうときは言い換えましょう、全部終わったら寝る。

 

まず学生支援室の予約をする。予約、の申し込みをした。一週間以内に電話がかかってきて、それから色々決めるらしい。電話か。こういうのは電話じゃないほうが行きやすいように思います。

 

よし、いよいよ文字起こしのあれを綺麗にするぞ。楽になる。楽になるべく、楽になる方法をとります。楽になって、ようやく幸福に必要な土台が安定するだろうという直感がある。何よりもまず楽になる。もっと言えば、この表現が正しいかはわからないが、回復する。回復してからはじめて、色々始められる。そのはずだ。

 

追記 結局家を出るまで時刻までに文字起こしが終わらなかった、けど時間単位で言うと30分/90分は終わったとは思う。ひとつ目に取り組んだ文字起こしのデータが、音声入力に一度かけたのにも関わらず全然形になっていなくて、実質一から文字起こしを始めることになっていた。だらだらTwitterを見ながら作業を進めた結果、15分の文字起こしに3時間かかった。直接作業時間で言えば2時間くらいだろうか。

 

もうひとつのデータは一度音声入力にかけたのがほとんど完璧(理想的)(もちろん手直しする箇所はあるけど)だったので、これも録音時間は17分程度だったのだが、小一時間程度で終わった。

 

なぜこのような差がついたのかというと、スマホのマイク/スピーカー性能が、ここ数週間の度重なる落下によって、低下してしまっている、というのが一つありそう。あるいはiPhoneでボイスメモを流しつつiPadに音声入力する手順、特にその二つの位置関係が悪かったとか、もありそう。スマホ買い換えるべきだしカバーをつけるべきだしまず落とすなと言いたい。こういうところも見直して楽にならなきゃ。

into the 夏

関東甲信地方が梅雨明けしたそうだ。でも肌感覚でわかるところがある、こんな猛暑で梅雨はないだろう。今日は全休で昼に起きたのだが、テレビをつけると外の気温は35度あるらしかった。何をする気も起きませんね、6月の35度は。

 

寝るときも冷房を消していたから、汗が凄かった。じっとりした汗をかいていた。扇風機を自分の方に向けて、なんどか深呼吸をして眠れた。10時間眠れた。この3日間の睡眠時間が12時間、14時間、10時間で推移している。何か疲れるようなことをしなくても、日々このくらい寝ている。でも長時間睡眠で調子が良くなるとかではない。

 

しばらくは夏の暑さに慣れる期間にしたい、涼しい室内に閉じこもるのもいいが、それはなんだか体力を徐々に削るように思うので、少しは外に出て暑さに慣れていきたい。

 

ということでここからファミレスまで自転車で出かけたい。暑すぎて無理だった。近くのコンビニまで歩くのが精一杯。コンビニのコーヒーとチューイングガムとアイス(サクレ)を買った。

 

調子が良い日が1日もない。数年前はこんな感じじゃなかったのに、いつからこのような調子の悪さが全身を支配するようになったのだろう。

夏に向けて

梅雨だ。梅雨なのに最高気温が30度近いのはおかしいと思う。と言ってもそういうおかしいことがこれからどんどん正しくなっていって、スタンダードとして固定化されていくことを思うと、わざわざおかしいと言うこともバカバカしくなる。口を開くのが億劫だ。文字を書くのも。

 

夏がやってくるのだ。梅雨が明け、人を殺すような猛暑がやってくる。わくわくタイムですね。きっと今年の夏は特段外出自粛が叫ばれないだろうから、誰にとっても良い夏になるはずだろう。楽観的な予想とならなければ良いが。

 

まあそんなことはどうでもいいのだ。

 

この夏、いや冬も、いくら電力不足で節電が叫ばれようと、もし電力不足で人が死のうと、たぶん自分は知らない顔で日々を過ごすと思う。罪悪感もないだろう。これが人殺しの顔をするということなのだろうか。

 

そういうことにひどく疲れてしまったのだった。そういうこととはどういうことか。自分でも詳しくわからない。自粛をめぐるゲームにも疲れ果てたし、インターネットで日々行われる対立にも、単なる言及の発生にも。詳しいことは本当にわからないのだが、疲れた。

 

これからは節電をめぐるゲームが話題になる。どうして節電しないのですか、とか、完全な善意で節電をする人々と、一般的に見れば自分勝手な行動が、何よりも最適だと認識して動く人々と。くだらない言い争い、ハッシュタグを使った一体感の顕示、節電方法をプッシュするメディア、それからそれから。あーもう疲れた。

 

勝手に自分で未来を考えて、先取りしてわかったようなフリをするのが癖になっている。早くやめるべきだと思う。

 

言いたかったのは(あるいは言ってしまったのは)ふたつだ。ひとつ、私はひどく疲れてしまった。そしてそれは現在進行形である。ふたつ、私は人殺しの顔をするだろう。本意か不本意かはともかく。

君は永遠に

ブックオフで270円で売っていた『君は永遠にそいつらより若い』という小説が......刺さった......良かった?いいえ、この本と出会えたことに対して万物に感謝したくなったので、文章を書いています。ネタバレがあります。

 

これだ、と思った文章を引用した時点で文字数が1500字あり、本という媒体にはたくさん文字が入っていて、何時間かければ一冊の本になるだけの分量になるのだろう、と思う。

 

少し引用しすぎたなと思って、5,6くらいの文書を削った。現実的に文章を書き終えるにあたって、サイズが大きすぎても良くない。自分に取り扱えそうなくらいに落とし込まないとやっていけないのだ。

 

物語の中に自分を見出してしまう、というのは、さらにそれを自らが語っていくという形式は、とても痛々しい自己開示で、ともすればそれが原因で他人に嫌われることもある。作品についての話を自分の側に寄せて書く、という行為は、「勝手に自分語りしている」のと同義になってしまうからだ。でもまあいいか。そういう感じにしか書けないのだし。

 

"でも結局、そんな自分を責める気にもならない。選択のしようもなく、わたしはそうでしか在れなかったことがよくわかっているから。だいたい、わたしと同じようなことをしていても、器用な子なら持つべきものは持ってやることはやれているから"

"なんにしろ、わたしが並外れて不器用なのは、わたしの趣味ではなくわたしの魂のせいだ。"

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』P19

 

序盤も序盤にこの文章を読んでしまって、ああ、これはもしかしたら自分のための本かもしれない、という盛大な勘違いをしてしまった。自分は自分でしかない──というフレーズは大抵ポジティブな意味で使われると思うが、この場合ではただ自分は自分でしかなく、別に変更できるものでもないのだ、そして不器用なのは自分の外側にあるもの(趣味)ではなく、魂のせいなのだ、と。

 

この文章を一度読んで、自分もそうなのだと、自分もそうでしかないのだと、文章の前に立ち、告白するような気持ちになった。自分が不器用なのは自らの魂のせいなのです。他の何でもなく、神経とか遺伝とか環境とか、ましてや趣味なんかでもなく、ただひとつ、私の魂のせいなのです。本当にそうなのだ。おお神よ。ジーザス。

 

 

 

 

"しかし十九歳の時に、......(中略)人生は妥協が大切なのだ、と急速に軟化し、まず容姿が軟化し、男の趣味も軟化し、人間性も軟化していった。が、さらに今になって考えてみると、転換以前と以後の生活に何ら大きな変化が見られないことが判明し、所詮わたしはわたしなのだとがっくりきて、そしてすぐにどうでもよくなった。"

P97

 

そのとき自分が変わったような気がするが、後々になって、別にそんなこともなかったと気づく。所詮わたしはわたしなのだとがっくりきて......「そしてすぐにどうでもよくなった。」そういう執着がどうでもいい、まで突入してしまう文章のスピードが好きだ。

 

結局近眼的な見方で何かが好転したように(または悪化したように)見えても、時間全体を冷静に振り返ってみれば、大して変わったように見えないものなのだろう。気分の上下も、近眼的には(その時間を単線的に生きる自分にとっては)とてもシリアスな問題だけれど、たいていの原因は天気と気圧と季節とイレギュラーなイベントごとなのであって、長期的に見ればいつもそこそこに悪い気分が続いているだけなのだろう。そう思うと、少しだけ気が楽になる。

 

 

"どうして今になって、他の人から口づてにきくような破目になるのだ、と自分を責めた。もっと早く、もう一度あの人に会いたいんだ、会わせてくれと言い張ればよかった、そんなことをわたしのような人間が言うなんておこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば。"

P192

 

......おこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば。これはコロナ禍にあって特に主体的に行動しなかった自分......いえ、これも欺瞞です。自分の半生全体に対して言えることだ。色々なことに「それは傲慢だ」とか、「おこがましいとは思わんかね」と常々思っていて、しかし(だからこそ)自らからは何もしない。主体性の欠如。

 

「自分を欺瞞している暇があれば」という金言を毎日呟きつつ生きていきたい。そのように自分を欺瞞している暇があれば......。「コロナ禍ですからね笑」そのように自分を欺瞞している暇があれば......。自分が何かすることがおこがましいなどと、自分を欺瞞している暇があれば......。

 

 

"わたしは全力で首を振り、自分でもなんで首を振っているのかわからなくなるぐらい振った後に、もういいよ、という曖昧なひとことだけが口をついた。そしてすぐにそんな自分を恥じた。より正確に言うと、自分を恥じることに逃げ込んだ。"

P208

 

「より正確に言うと」「自分を恥じることに逃げ込んだ。」

自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。自分を恥じることに逃げ込んだ。......

 

映画版も観たのですが(劇場で)、舞台が京都から東京に変更されていることと、時代が2000年代から2019年に変更されていて、スマホSNSが平気な顔をして出てくることに耐えきれなかった。自分はスマホSNSが嫌いなのだと明らかになっただけ、収穫かなと思う。小説ではガラケーじゃないといけない必然性が、そこにあったはずなのに。iPhoneやLINEの通知音が、どれだけチープに映るのか、ちゃんと製作陣は考えたのだろうか。きっと考えたのだろう、そのうえで舞台を現代の東京にしたのだろう。ただどうしても合わなかった。

 

原作を読まずに映画単体で見たら評価は高かっただろうけれど、原作を2022年に読んでから映画を観る、という流れにおいては、映画は心底最悪な印象だった。涙が出た。ニンテンドースイッチぷよぷよをしているイナギさんに。絶望だった。そういうものなのだろうか。いや、そういうものなのだろう。

 

 

 

 

文章1

文章を書く習慣が身体から失われた、抜けきってしまった、と思う。普段文章を書くタイミングは、例を上げれば、ツイート、ブログ、日記、メモ、リマインダー、レポートなどがあるが、このうちのほとんどを書くことなく、この数か月を過ごしてしまった。

 

一点訂正がありました。1月の終わりごろから、高校で同じクラスだった2人の友人と、LINEのグループに毎日日記を投稿する、という取り組みを始めた。午前4時までにその日の日記を投稿する。忘れてしまった場合は、罰として100円を何らかの形で募金しなくてはならない、というルール。もう4か月ほど続いている計算になるが、投稿を忘れたのは1回しかない。なんだかんだ言って、4か月も日記を書くのを続けられている。書く習慣が失われた、と書いたが、少なくとも簡単な日記のレベルでは続けられている。

 

日記の文面はたいてい、何時に起きた、気分が良い/悪い、天気の話、聴いた音楽と観た映画と読んだ本、筋トレをしたかどうか、くらいのものだ。

 

例として、3月後半に熱海や京都に旅行に行った日の日記を引用してみようと思う。

 

3/22 火

 

"10時起床。だらだらしたあと新宿へ。紙の文庫本をめくる。雪の新宿を見たかったが、少し遅かった。スタバでデカフェの温かいやつを飲む。まあ、うまい。

合流してからは新宿のTOHOで「ザ・バットマン」。内容はかなり面白かったけれど、貧乏ゆすりかシアターの関係か地震か、座席がめちゃめちゃ揺れて、うまく没入できなかった。内容はトランプ以後のお話だなと思う。

そのまま帰ってもよかったのだけれど、節電がどうこう言っているのが嫌だったりして、熱海へ。まあ熱海(静岡東部)も東電の管轄だったから、逃げられてはいないのだけど。

ホテルで飯など。明日は適当に過ごしたい。"

 

3/23 水

"9時起き。だらだらしつつチェックアウト。熱海の海を観る。そのまま京都へ8時間かけて鈍行列車で進む。文庫本は森見登美彦。"

 

3/24 木

"京都2日目。チェックアウトと睡眠欲の戦闘があった。結局、その時間にうつらうつらして夢を見るのが一番気持ちいい。

人と会う予定があったが、それまで暇だったのでただひたすらに川を見ながら時間を潰した。2時間くらい。川は落ち着く。

その後はフォロワーに会い、散歩や近況の話、本屋やラーメン屋などに。天下一品の総本山、はじめて行けた。総本店の方が(今まで食った天一よりも)うまい。間違いない。

その後はホテルに帰って風呂。サウナがあれば最高だったが、まあそうはいかない。そのあとはYouTubeや本など。筋トレは、流石に今日は歩きすぎたので休み。明日の夜に深夜バスに乗り込んで帰ります。”

 

3/25 金

"京都3日目。9時ごろにぬるりと起床。またモーニングを食べ損ねる。

なんと言ったっけ、ええと、そう、加湿器の存在がありがたいなと思った。プラズマクラスターのやつ。アレのおかげで花粉によるモーニングアタックも喉が痛くなることもなかったし、部屋に欲しいなあと思う。

ゆっくり準備をしてチェックアウトギリギリにホテルを出る。川を見つめる。人と会う。歩いてラーメン行ったりカラオケ行ったり。楽しい。「分かち合える」人は確かにいるのだ、と思う。

その後、ノリで大阪へ。ベトナム料理の店へ。フォーという食べ物をはじめて食べた。うまい!あっさりしていてペース良く食べられるけど腹持ちも良くて、バランスが良い料理だった。

その後は京都に戻って、サウナの梅湯という温泉へ。街に溶け込んだ銭湯、という感じで、古き良きという言葉が似合う。駅によってお土産を買ったりして、深夜バスに乗り込む。

ホテルに帰っていないので、筋トレはなし。ここ2日できていない。明日から取り返す。"

 

適当で、文末の表現やらに一貫性も何もないけれど、書くべきことは書けているだろう。振り返って、どういうことがあったのかは把握できる。その一方でどう思ったかとか、どう感じたかとかはあまり書けていないように見える。

 

何はともあれ、すごい、案外書けているではないか。日常的に文章を書く場所があって、そこに文章を出力し続けられている。文章の拠点、ホームグラウンド、のようなものが出来ている。

 

ただ、ある程度の長さの文章を真面目に書く筋肉は衰えている。キーボードに手を置いてみても、手が動かない。ぼーっと画面を眺める時間だけが続いて、そのうち頭が痛くなってくる。書けない!無理だ!やめておこう!

 

書けない理由はいくつかあるが、そのうちでも大きな理由は、インターネットや社会の「正しさ」を私がインストールして内面化し、書く文章を常に自己検閲(あるいは校閲)している点にある。より端的に言うならば、「クソリプ防衛機構」の過剰な運用がされているのだ。

 

インターネットや社会の「正しさ」というのは、これを言葉にするのも酷く恐ろしいが、例えばポリコレに配慮するとか、(それが当たり前で、それが出来ない人間は「アップデートされていない」とか)、環境に配慮することは当たり前で、SDGsへの積極的な取り組みが叫ばれている現状とか(SDGsとコラボ!とかSDGsのまち、とか)、ジェンダー的な平等に気を使う......「男だから」「女だから」を止めるとか......のことです。

 

上記に挙げたすべては正しいので、その正しさを検証する必要は無いでしょう。なぜなら何よりも正しく、その正しさは今度ますます社会に浸透し、スタンダードになっていくためです。我々は「アップデート」されゆく存在だからです。

 

ある種の人々にとっては、ここ数年での認識の変更が間違いなく先へ進んでいて、「アップデート」という語が示す通り、新しく、(おそらくこの語には「セキュリティ・アップデート」という文脈の上で使われているでしょうから)、より良くなっている、という認識があるためです。それは正しいので、正しいかどうかの検証は最早不要なのです。すべては正しくなるので。

 

話が脱線したような気がします。とにかく正しいことは正しいままに進められ、そのうち常識になり、正しくない振る舞いをする人間は「非常識」な存在として認識されるだろうということは、想像に難くありません。

 

とにかく、私たちは社会という盤上において、正しさのゲームのプレイヤーとして、最適な(正しい)振る舞いをしなければなりません。

 

多様性は大事である、と言わなければ誰かから(あるいは社会から)減点が発生するでしょう。男女平等からかけ離れた言動をすれば、何らかの社会的な制裁があるでしょう。そういったマイナスを避けるために、私たちはお互いに、唯一の例外なく社会のフィールドにおいて、正しさのゲームを進めるしかないのです。

 

落とし所がわからなくなってきたが、ともかく、正しさのゲームにおいて、文章を書くこと、特にインターネット上で発言することは、かなりのリスクを伴います。

 

文章の内に正しくなさ──つまり"スキ"を見せてはいけません。そうすると、どこからかリプライが、あるいはそのつぶやきを上書きするように、引用のつぶやきが飛んでくるかもしれません。それはまさしく「飛んで」きます。

 

正しくないことを書くと、無数のインターネットユーザーによって、その点を指摘されます。時代遅れだの炎上案件だの文脈も文章も読まないリプライだの......まあそういうものを、ここ数年、私(たち)は毎日見てきたと思います。

 

ここで、「私(たち)」と書いたのも、インターネット主語デカ取り締まり警察に捕まらないためです。どうしますか?「私たち」と素直に書いて、「それってあなたの感想ですよね?」「私はそうではないんですが」「勝手に巻き込まないでくれます?」というコメントが来たら。恐ろしい。恐ろしすぎる。

 

本当にインターネットが嫌になってきた。こんなインターネットやめましょう。せーのでインターネットやめましょう。せーのっ!

 

消費されゆく

本当は、一々意を決してPCと向き合わなくとも、スマホで文章は書けるのだ。文章を書くときはPCで、という自分のこだわりは、日常的に触れているデバイススマホでも書けるのに書いていない事への言い訳だ。眼前の状況から逃げている。

 

『ライティングの哲学』で指摘されている通り、重要なのは、というよりかは根本的な問題は、先延ばし癖にあるのだろう。「あとでやろう」「一旦Twitter見るか」「風呂入ったらやろう」など。そうではないはずだ。今すぐやれば楽になれるのに、それをしない。何故だろう。

 

思えば先延ばし癖は小学生の頃から発現していた。端的に言えば宿題──特に「夏休みの宿題」において。大抵は最終日にまとめて取り掛かっていたし、そもそもやらずに9月を迎えた年もあった。それを矯正できずに大学生にまでなってしまった。それこそ癖をなんとかすることを「先延ばし」している!

 

と、書ける書けない・書く書かないについて書くことで、自分は文章を始められる。そういうのもどうやら癖らしい。対面・非対面問わず、会話が少し落ち着いたり話すことがなくなった時に、「いやー、話すことなくなりましたねー(笑)」と言うのも、たぶん、そういう癖の一部なんだろう。そこで一度、リセットとリスタートを図らないとやっていけないのが自分なんだと思う。それは僕の生存戦略

 

 

「消費」の話がしたいのだった。物的消費も自分の中である程度の関心があるがしかし、特に「コンテンツ消費」......それっぽい言い方をすれば「コト消費」になるのでしょうか。いや、違いますね。違うと思ったら違うのでしょう。「消費」の中でも、コンテンツ消費に特に興味があります。

 

物体を伴わない消費、でおおよそは言いたいことが示せると思う。例えば本、映画、アニメ、漫画、音楽、SNSYouTube、漫才、......などだろうか。それらは形態としてのメディアが必要である。「一杯の水」を認識するにはコップが必要なように、入れ物が必要なのだ。形としての(メディアとしての)本、映像を流すためのテレビ、それらすべて一つの入れ物に集約可能なスマホ、など。

 

今はその外側の容器の話ではなくて、内側そのものと私たち消費者の関係の話。消費するコンテンツの話。文章がドライブしている。いや、ドライヴしている。

 

私たちは──、いいえ、私は、コンテンツ消費の奴隷ではないはずだ。毎日見てしまうSNSの情報や、無料で視聴可能なYouTubeの動画、月額数百円を支払う事で見放題になっている数々の面白い映画や、毎日更新される無料で読める漫画。多い。多すぎる。とても人間1人には負えない。「人類は豊かになりすぎた」──というのは、主語が大きく検証が甘くていただけない。より控えめで身近に言うのなら、「私が日々扱う情報量は増えすぎてしまった。」扱う?扱うで合っているはずだ。

 

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いつか観たいと思ってリストに入れたままの映画、あの人が好きだと言っていたバンドの新曲、自分がハマった作品のネタ元だという小説、通史で重要だとされる、少し昔の作品。

 

それらを摂りたいと言っている割には摂って無かったりする。私は何をしているのか。

 

あとメディアとSNSと言及と「繋がる」意識の話をしたかったのだけど、今は無理そう。そのうちに書きたい。......これも先延ばしだろうか。

 

生存戦略

 

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